「うちあわせCast」を聞いて考えた、「学校」についてのこと
うちあわせCastを聞きました。
「自分の道具を作る」について。
その中で触れられていたのは、本を読んで、それを盲信的に信じたり、それが唯一の正解やと捉えて、自分のやり方があっているのかどうか確かめたい人がおるけど、それってどうなんだろうか、という話が印象的でした。
それに続いて、日本の教育について言及されていました。実際に教育現場にいる身としては、色々と考えさせられますし、自分なりの意見なんかも持ち合わせているわけで。
今日はそれについて書きます。
学校教育は、正解するか否か、に重きを置かれているため、正解かどうか、を気にする人に育ててしまう。
だから、自分で作る、という発想にならず、正解を求めてしまう。
そのような意図のことが話されていたと思います。
それに対してぼくは、このように思いました。
- 学校で教わるのは、「基本のき」みたいなこと。考えるにしても、基礎的なことを知らないと考えようがない。作りようがない。その部分を教える役割を担うのが、学校ではないかな、と。
- いきなり「自分の道具を自分で作ってみよう」「自分なりに考えてみよう」と言われても、それがたとえ答えが1つに定まらないことであって、自由に考えていいとしても、やはり考えるための前提となる知識や技能がなければ、難しい。
- 「基本のき」を学ぶ際には、正解かどうかがやはり大事。
- その基本を土台とすることになるので。
また、普段学校で(ぼくが赴任している学校は、学力的にはかなりしんどい、いわゆる困難校といわれるところ)教えていて、よく感じること。
- 教えていて感じるのは、「じゃあ考えてみよう!」と威勢よく言ったとしても、そもそも考えるための知識や技能がないと考えることができない、ということ。
- 正負の数の計算もおぼつかない状態なのに、因数分解にて「足して−1、かけて−6になる2つの数は?」と聞いても、なかなか厳しいものがあるように。
なので、結論的にこう感じました。
- 「考える」をするための前提知識を教える場。
- 「作る」をするための基本技術を伝える場。
- それが、学校教育で果たすべきことではないかな、と。
- 受験が第一に考えられがちやけど、ほんまはそれを第一義にしてしまうのは、やっぱりよろしくない。それこそ、正解を求めてしまうことにつながりかねない。
この考えは、赴任している学校によって大きく違ってくるように思います。小中高でももちろん違ってくるという前提のもとでの、結論です。
とはいえ、学校で何かを教えるとなると、確かに「正解」を求めるような場面設定がほとんどになってしまっているのも事実です。
生きていて、正解が明確に決まることなんてほとんどないのに。
その点で、学校という場所は、かなり特殊な場所である、と言えそうです。
ということもあり、
- 学校という現場で「これがいい」とされていることは、積極的に壊していったらいいのではないか。
という思いが強くなりました。
- 学校という場におると、そこでのことが当たり前になってしまう。当たり前になると、疑いの目を向けなくなり、社会においても同じ目線で見てしまう。
- でもやはり、学校というところは特殊である。
- なら、学校という現場で是と思われていることは、往々にして社会においては非であるかもしれない。
- そういう認識でいることや、学校という場で盲目的に是と捉えられていることは、積極的に崩していくべきではないか、と。
- 当たり前と思われていることほど、「ほんとうにそうなのか?」を問うていくべきではないか。
- だからぼくは、学校において、できるだけ「こうすべき」と言われていることに対して、別のことをやっていきたいな、当たり前になっていることに対して、「ほんとうににそうか?」を問うていきたい。
このあたりが、ポッドキャストを聞いて考えたことをその日のうちにだーっと書き出しておいたものになります。
読み返しながらこのブログを書いているわけですが、聞いている時は、もっといろいろなことが頭の中を駆け巡ったように思います。
とても思考を刺激してもらいましたし、ポッドキャストのお二人の話がとてもおもしろい(毎回とてもおもしろい)ので、興味ありましたらお聞きになることをオススメします。
では、お読みいただきありがとうございました。