発見や驚きを伝えたいならば

R-style」の@rashita2さんが発行しておられる、「Weekly R-style Magazine ~プロトタイプ・シンキング~(WRM)」を、最近になってようやく購読しはじめました。WRMのスタート当初からその存在を知っていたのにもかかわらず。もっとはよ購読しとけば良かったな、と多少後悔しております。
そのWRM10月6日号での知的生産エッセイで、「わけのわからないもの」というものがあり、これからいろいろと考えたことについて今日は書いていこうと思います。

説明文では伝えられないもの

「わけのわからないもの」から、少し引用します。

「わけのわからない」ものを相手に伝えたければ、「わけのわからない」ままに手渡すしかありません。
あなたがいた状況に身を置いてもらい、あなたが見聞きしたものを体験してもらう。
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そうすることではじめて「なるほど、これがわけのわからないことか。たしかにわけがわからない」と伝達することができます。
これが、物語だけが伝えられる_説明文では伝えられない_ものがある、と私が考える理由です。

これを読んだとき、確かにそうやでなぁと、深く納得しました。と同時に、あることを思いました。
「発見や驚きにも共通することじゃないか。」と。

発見・驚きをいかに促すか

ぼくが、数学を教えるときに、もっとも大事にしたいと考えていることは、「教えすぎないこと」です。
すべてをこちらが説明してしまっては、新たな発見をすべてこちらが提示してしまい、学ぶ者自らが発見する機会を奪ってしまうことになります。
また、すべてを教えてしまえば、驚きも半減してしまうでしょう。自分で考え、そうか、そうなのか!と驚く。その機会をも奪ってしまうことになります。
発見や驚きを奪ってしまう。これほど、罪深いことはあるでしょうか。
そんな思いから、「教えすぎないこと」を常々念頭に入れて、授業を考えることにしています。
教えすぎず、発見・驚きをいかに学ぶ者の中に芽生えさせるのか。そこまでどう持っていくのか。
これは、ものすごく難しい。難しいのですが、やはりそこを目指したいと思うんです。発見する、というのは、ものすごくうれしくて、興味深くて、楽しいことだと思うから。
そして、この「学ぶ者自らが、発見したり、驚いたりするために、いかに教えるか?」という難しい問へのヒントが、今回の「わけのわからないもの」には詰まっている、と感じたわけです。

「わけのわからないもの」→「発見や驚き」

「「わけのわからないもの」を伝えるためには、伝えたい相手に、その「わけのわからないもの」をそのまま手渡すしかない。「わけのわからない」状況・場面を、体験してもらうことでしか、自分が伝えたかった「わけのわからないもの」を伝えることはできない。」
この文脈における、「わけのわからないもの」を、「発見や驚き」という言葉に変えてみましょう。
「「発見や驚き」を伝えるためには、伝えたい相手に、その「発見や驚き」をそのまま手渡すしかない。「発見した」「驚いた」状況・場面を、体験してもらうことでしか、自分が伝えたかった「発見や驚き」を伝えることはできない。」
これは、数学を教える、伝えるときに意識すべきことと言えそうです。
今まで数学を学んだ中で、数々の発見や驚きというのがありました。教えるときには、それをそのまま体験してもらえるよう、環境を整える。まったく同じ状況を作り出すことは難しいですし、学ぶ者の力を知り、それに合わせて環境を設定する必要はもちろんあると言えます。前提となる知識の提示方法や、どの程度までこちらが学ぶ者を導いていくのかなど、環境を整えるまでは、微妙な調整が続きます。その微妙な調整こそ、教える者に求められる技術と言えるのかもしれません。
数学では、発見や驚きがあるかないかで、おもしろさが大きく変わってしまいます。ほんとにもう天と地ほどの違いが出てきちゃいます。それだけに、その微妙な調整には、細心の注意を払っていかなければいけないなぁ、と感じます。

おわりに

文章を書くことにおいても、何かを教えることにおいても、「伝える」という共通点があります。なので、お互いが、お互いのヒントとなり得ることってたくさんあるのかもなぁ、と感じました。
数学を柱として、たくさんの人に”良い影響”を与えることが、ぼくの目指すべきところ。そのためにも、いろんなことから数学を伝えるために役立ちそうなことを吸収し、実践し、自分のものにしていきたいな、と思っています。
では、お読みいただきありがとうございました。