「そういうもの」のうちのひとつについて

長いこと、それこそ何年も何十年もずっと好きなことって、誰しもそんなに多くはないと思います。
時期ごとに熱中したものはあれど、どこかで飽きるというか、熱が冷めるもんです。
でも、中には、何年も何十年もずーっと好きでいられることがあったりします。
ずっと好きなことに出会うと、それは生活にしみわたり、それにふれるために時間をつくったり、日々の活力になったり。
それなしの人生は、ちょっとイメージしがたいくらいになります。
そういうものに出会うことができるのは、幸せなんちゃうかなぁ。
そんな風に思います。
ぼくにとって数学や本を読むことが「そういうもの」にあたります。
今回は数学について、ちょっと書きたいと思います。


いつから数学が好きなのか、と考えてみると、小学校のころにさかのぼります。

先生:じゃあ、算数ドリルの27ページを開いて、そのページの問題を解きましょう。
解けた人は先生に持ってきてねー。
いつものように、はやく全問正解した5人には、先生の代わりに「マルつけ先生」をやってもらいますからね。

ぼく:(よしゃ!今日もはやく問題解いて、マルつけ先生しよう!)

ぼくは一生懸命に問題を解き、「マルつけ先生」の役をゲットし、はりきって友だちのドリルのマルつけをしていました。
そろばんを習っていたこともあってか、みんなよりも計算をすばやくおこなうことができていました。
計算問題がササッと「できる」ことがうれしく、「マルつけ先生」になれるのが楽しかった小学校のころ。
算数が、少し好きでした。
小学校でのこの経験は、ぼくの中の大切な思い出の一つとなっています。
そして、そこからちょくちょく、数学はぼくに、強烈に印象に残る出来事を与えてくれます。

中学生のころ。
週に3日ほど塾に通っていたおかげもあってか、数学、理科、英語がまずまず得意でした。
ある日の塾での出来事を、すごく鮮明に覚えています。

先生:ノートに5cmの長さの線分をかきましょう。
みんなかけた?
じゃあここで問題です。
その線分から、2cmの距離にある点がえがく図形をかいてみましょう。

ぼく:まず線分の両側に同じ長さの線分を平行にかいて。。。
・・・
先生:おぉ、すごいな。これ、正解です。みんな、ちょっとこれ見てみて。
先生、これまで塾で教えてきたけど、正確に作図できてたのはキミがはじめてやわ。すごいすごい。

今考えれば、先生の「キミがはじめて」という言葉は、ほんとうかどうか実際のところはわかりません。
でも、ぼくは、自分で考えて、定規とコンパスを使って図をかき、それが正解であったことがむちゃくちゃうれしかった。
しかも先生に「キミがはじめて」と言われたことも、すごく誇らしかった。
考え、自分の答えを出し、それを強烈にほめてもらえた経験は、おそらくずーっと忘れないことと思います。

高校に進学し、数学がとたんに難しく感じるようになりました。
定期テストの前だけ必至こいて勉強し、なんとか赤点をまぬがれるように乗り切る。
そんな風にして、いつしか高校3年生。
大学進学のため、これまでの人生で最も勉強に励む時期に入ります。
理系クラスに進学したものの、中学まで好きだった数学は、難しくてなかなか身につかず、好きという風に感じなくなっていました。
そのころ好きだったのは、化学と物理だったでしょうか。
中学までは、数学を、問題の解き方を暗記することで対応していました。
それでなんとかなっていたんです。
けれども、高校では学ぶ内容がすごく多くなり、解き方の暗記では、自分の中に吸収しきれなくなってしまいました。
これが、数学から気持ちがはなれた原因だと思います。
でも、いくつかの出来事によって、またぼくは数学にグググッと惹きつけられていきます。
その中でも特に印象的なのは、高校3年になってからの、予備校での授業でした。

ぼくが教わった先生は、

  • 解き方の暗記ではなく、「なぜ?」を考えること。

について、熱く伝えてくれました。

  • なぜそう考えるのか?なぜそう進むのか?なぜそう扱っていくのか?
  • 数学は、その「なぜ?」に必ず答えてくれる。
  • やみくもに問題を解くのではない。
  • やみくもに式変形するのではない。
  • 条件と求めるものを明確にし、一歩一歩求めるものに向かって進んでいく。

解き方を暗記する数学から、考えて進む数学へ、180°転換した瞬間でした。
そして、その先生が教えてくれたことは、今のぼくの中に、深く深く根付いています。

予備校の先生の教えのもと、無事大学に合格できたわけですが、大学に入ってすぐに打ちのめされます。
代数学、線形代数、微分・積分学、幾何学。。。
どれもが難しく、いまひとつわからない。
それでもなんとか単位をとりつつ、3回生からはゼミがはじまりました。
あえて、ぼくのいる学部で一番厳しい先生のゼミに入り、必至こいて勉強し始めました。
ゼミの形式は、教科書を理解し、ゼミにて90分間先生に対して、何も見ずに理解した内容を解説する、というもの。
内容を理解し、頭に叩き込んでゼミにのぞまなければいけません。
少しでも理解が不十分であれば、解説の際にすぐに先生に見抜かれてしまいます。
苦労しながらも、同じゼミの友だちと協力し合いながら、なんとか教科書を読み進めていました。
ある日、勉強していて、どうしてもわからない部分にぶつかりました。
いくら考えてもわからない。
しかも、たった3行の記述について、どうしても理解することができないんです。
考えても考えてもしっくりこない。意味がとれない。後の内容につながっていかない。
その部分について、ずーっと考えました。
先生に質問することもできたのですが、そうしませんでした。
ある程度自分で考えると、躍起になって、どうにかこの部分を自分の力で理解したい、という気持ちになります。
だから、すっと考えました。
文字通り三日三晩考えました。
そしてその瞬間が訪れました。
「なるほど!そういうことか!」
この瞬間。すべてがつながる瞬間。理解できた!と確信する瞬間です。

そんなこんなで、今もまだ数学をちまちまと学んでいます。
大学生の時のこの体験、三日三晩考え、自分で理解できた体験がなかったら、もしかしたら今はもう数学を学び続けていなかったかもしれません。
それほどに強烈な体験でした。


長いこと、それこそ何年も何十年もずっと好きなことって、誰しもそんなに多くはないと思います。
でも、中には、何年も何十年もずーっと好きでいられることがあったりします。
それなしの人生は、ちょっとイメージしがたいくらいの。
そういうものに出会うことができるのは、幸せなことだと思います。
ぼくにとって数学は、「そういうもの」です。
だから、今もまだ数学を学び続けていますし、そんな数学の魅力を伝えたいと思っています。
ぼくが数学について語り、伝えていくことで、ちょっとでも数学が好きになったり、興味を持ってもらえるように。
究極は、ほかの誰かにとっても数学が「そういうもの」になってくれるように。
ずーっとそこを目指して、生きていきたいものです。

では、お読みいただきありがとうございました。

抽象化の先に待っているものが感じられるTED動画

小学校で学ぶ算数と、中学校以降に学ぶ数学。このふたつには大きな違いがあります。
よく「算数は普段使うから必要やけど、数学を普段使うことはない。やから必要ない」って意見を聞いたりしますが、「必要ない」という部分以外はまさにそのとおりだと思います。「算数は普段使うから必要やけど、数学を普段使うことはない」。だって、扱う対象が違うんですもの。

算数で扱うのは、”具体的”です。具体的な数を扱い、数に関する知識を学びながら、四則演算を習熟していきます。に対して数学で扱う対象は”抽象的”なもの。数学では「文字式」を筆頭に、普段の生活ではなかなか出てこない、抽象化された世界へと踏み込んで行きます。
だから「算数は普段使うから必要やけど、数学を普段使うことはない」んです。ただ、必要ないことは決してないですが。

抽象化してなんなのさ

じゃあ、抽象化していったいなんだというのでしょうか。

中学校に入り、いきなり度肝を抜かれるのが、文字式だと思います。
それまでは500とか1.2とか具体的な数字を用いていたのに、なんだかxとかyとかが登場してきて、それで式を表現したりします。抽象化された世界への第一歩を踏み出すわけです。

算数の有名な問題で「鶴亀算」というのがあります。鶴と亀の数とその足の総数からそれぞれ何匹いるのかを求める問題です。

算数の世界ではあくまでも具体的な数を扱うので、まずは「すべて鶴であるとする」という仮定から始めての、総数を求めて行きます。それはそれで大切な考え方を学ぶことができるのですが、文字式を獲得したあとであれば、”方程式”という強力な武器が使えるようになります。こっちの方は鶴亀算のみならず、いろんな問題に応用可能です。

具体的な世界を離れる、ということは、応用範囲を広めることにつながります。

「ロバートラングが全く新しい時代の折り紙を折る」

抽象化することの恩恵がすごく感じられる動画が、TEDにあります。それが「ロバートラングが全く新しい時代の折り紙を折る」。

とにもかくにも動画を見て欲しいなと思います。「折り紙もすごいとこまできたもんだ」と感心すること請け合いです。

ロバート・ラングが全く新しい時代の折り紙を折る | Video on TED.com

今回注目して欲しいのは、折り方をコンピュータに計算してもらうことができるようになるまでの話の部分です。
そこでは、いろんな折り方のすべてに共通する要素を抜き出してしまうと、たった4つの法則にたどり着くことができる、ということが述べられています。
折り紙には古くから培われてきた、本当に様々な折り方ってのが存在します。これまでは一つ一つ折り方を編み出してきたわけですが、すべての折り方に共通する法則を抜き出すことで、折り紙の世界はとたんに広がります。
簡単な骨組みを考えることで折り方をコンピュータにはじき出してもらうことができるようになったんですから。
具体物の一つ一つをから構成されていた折り紙の世界を、すべての折り方に共通している要素、”4つの法則”を抜き出すことで抽象化し、単純な要素のみで表現することで、しまいにはコンピュータに計算してもらえるようにしちゃったわけです。
コンピュータの技術がどんどん高まっている現在、こんな事例はこれからも出てくるのではないかなと思います。

おわりに

というわけで、TED動画「ロバートラングが全く新しい時代の折り紙を折る」を見ることで、抽象化の恩恵を感じ取れるのではないかなと思います。
抽象化するってのはとてもすごいことなんですけれども、抽象化されたら具体を離れるということで、目に見える対象ではなくなっちゃうんですよね。やっぱり普段の生活で扱うものは具体的なものばかりなんで、対象が抽象的なものである「数学」という学問は「別になくても困らないし、必要ないでしょ」って結論に至っちゃう人がとても多いんでしょう。
でも、だからこそおもしろい面もあるわけで。そんなのをこれからも紹介できればなと思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

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教え手は”今の自分”を基準にしてはいけない

どんな職業・立場であれ、「これはこうするんだよ」であったり、「こういうことだよ」と伝えたり教えたりすることってあると思います。で、そんなときに「言うたのになんでわからへんねん」「さっきのん全然伝わってなかったんかいな」って感じたことってありませんか?
この状況の原因は、一概には教え手/学び手、あるいは伝え手/受け手のどちらが悪いとは言い切れません。教え手は、ちゃんと説明したのにわかってくれないと、学び手を責めがちになったりしますが、ちょっと立ち止まって考えてみて欲しいと思うんです。

”今の自分”を基準に物を言っていないか?

ぼくは、基本的には数学の教え手です。数学については、今までいっぱい学んできましたし、これからもたくさん学んでいくことでしょう。学ぶことは、自分お知識や経験が増えていくため、良いことではありますが、その反面、学べば学ぶほど”学び始め”からは遠ざかってしまいます。
教え手であるぼくが数学を教えるのは、”学び始め”である学び手のみんな。
この時点では、教え手と学び手の知識や理解、経験が違うので、言わば距離が離れた状態。もしぼくが今の自分を基準にうんじゃかんじゃ話したとしても、学び始めの学び手にはほとんど伝わらないという、不測の事態に陥ってしまうでしょう。
当たり前のことですが、当たり前すぎて忘れ去られていることでもあります。人は、当たり前なことほど意識外に放り出してしまうものなので。

距離を縮めることを、常に意識する

教え手と学び手の距離を縮めようとする意識は、常に持っておきたいものです。もちろん教え手が。学び手に「教え手に合わせて話をしなさい。教え手と同じレベルで理解をしなさい」と言っても、到底無理なので。
学び手には、知識の量・理解の度合いには限界があり、教え手との距離を縮めたくても現状どうすることもできません。教え手が学び手に歩み寄り、距離を縮める。そのためには、学び手側の今の知識量・理解の度合いをイメージする必要があります。そのイメージの元となるのは、過去の学び始めの頃の自分であったり、他の違う学び手に教えた時の経験であったりします。
また、質問の内容は、丁寧に確認することも求められます。教え手と学び手は知識や理解に差があるわけですから、学びてからの質問の内容を教え手が間違って把握する、なんてことはよくあること。それでは距離は縮まりようがない。
距離を縮めるために、学び手の今の状況をできるだけつかみ、イメージする。そういったことが大切であるように感じます。

おわりに

「なんだか伝わらないなぁ」と感じたら、学び手との距離が離れていないか?に目をむけるのもいいのではないでしょうか。伝わらない原因は1つではないにしろ、距離が離れてしまっているというのは大きな原因の1つになり得ます。

今回書かせてもらったことは、職業柄、教え手になることがほとんどの自分が意識したいことです。教え手という立場ばかりにいてしまうと、忘れてしまいがちなことなので。人は、当たり前なことほど意識外に放り出してしまうものです。この当たり前のことを意識外に放り出してしまわないためにも、こうして思い返し、考えることは有効かなとおもいます。

理解しちゃっていても、まだ理解に至らずうんうんと頭を悩ませる状態をイメージすることはできるはず。

では、お読みいただきありがとうございました。

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概念の拡張と日常への適用

数学では、新しく世界を広げるために、「概念を拡張する」ことがある。

拡張するとは、適用範囲を拡げること

例えば、「数」。ぼくたちが一番初めに学ぶのが、1、2、3、4などの「自然数」とよばれるもの。この自然数に対し、「+」「−」「×」「÷」の計算ー「四則演算」ーが定義されていくこととなる。
すると、「1÷3」や「2-5」など、計算の結果が自然数ではなくなるものが出てくる。出てきた数を認め、はじめは自然数に対して定めた「+」「−」「×」「÷」を、新たに出てきた自然数ではない数に当てはめてもいいかを確かめる。
そうして、これらの演算を、小数や負の数などの自然数以外へと、拡張していく。さらには、有理数、無理数、虚数へと進んでいき、どんどん演算の及ぶ範囲を拡げていく。

こんな風に、概念を拡張していくことで、考え得る世界を拡げていくのが、数学の大きな目的の一つと言える。

”知識”自体が大切なのではない

こんなことをよく聞く。「日常で出てくるのは、たすひくかけるわるくらい。それさえできればいいので、必要なのは算数まで」。

確かに、数学で学ぶような、「三角関数」であったり「微分・積分」であったりは、日常ではまず出てこない。はっきり言って必要ない。でもそれはあくまでも、「知識としては」という前提がつく。

「知識としては必要ない」のであって、「学ぶ必要がない」わけではない。ここを取り違えてはいけない。

数学を学ぶのは、数学的知識を蓄えることが目的ではなく、数学で培うことのできるものの見方・考え方を、日常へと拡張することが目的と言える。

拡張して、適用範囲を拡げることが目的

数学では、論理的に考えることや、記号を使ってシンプルにとらえること、グラフや図を用いて、視覚的にとらえること、問題を解決する際のアプローチの方法、、、などなどを学ぶことができる。
これらは「知識」ではなく、「見方や考え方」であり、覚えておくものではなく、身につけるもの。
この身につけたことを、日常へと適用範囲を拡げること。数学のいないところにも、概念を拡張すること。それこそが、数学を学ぶ目的と言える。

拡張の経験が日常にも活かされる

数学では、新しく世界を広げるために、「概念を拡張する」ことがある。頻繁にある。
ということは、数学に触れることで、概念の拡張を数多く経験できる、ということになる。この経験が、数学の身につけたものを日常生活へと拡張することにも、役立っている、と思う。

意識的かどうかは別として。
数学で培った力が拡張されていることを、自分自身意識できているのかは別として。

気づかない間にでも、数学のものの見方、考え方が、日常へと拡張されているのであれば、やっぱり数学を「学ぶ必要がない」わけはない。

おわりに

将来的に使わないから、というのは、学ばなくていい理由にはならない。教科によって差こそあれ、何かを「学ぶ」ということは、知識を蓄えることのみならず、その教科で養える力を習得するためにあることだから。

ぼくは、歴史や漢文が大嫌いだった。「覚えるだけ」の教科だと勝手に決めつけ、覚えても将来役立たないではないか、と、自分に言い訳をして、なるべく避けようとしていた。でも、今では思う。歴史や漢文も、覚えるだけが目的ではないと。「学ぶ必要がない」わけはないと。もう少し真面目に取り組むべきだったな、という、少しの後悔だけがのこっている。

数学に対して、そんな後悔がのこる人が、一人でも少なくなればいいな、と思う。

では、お読みいただきありがとうございました。

「授業は難しい。だから楽しい」とはなかなか言えないけど、うまくいってない部分を打開して楽しめるようになりたい

授業で難しい、と感じるのは、「どうすれば数学を学ぶ気になってくれるのか?」というところ。これがほんまに難しい。
ぼくの赴任している高校の生徒は、勉強することに苦手意識というか、高校に入るまでの経験で勉強することに対してポジティブな感情よりもネガティブな感情を抱きがち。
そうならざるを得ないこともあるよな、と感じる。
特に数学のような積み上げていく教科は、小学校あたりでつまずき、そのつまずきから先「わからない」の経験が積み重なっていってしまうことがある。
そうなると、なかなか数学を学ぶことに対してポジティブな感情を抱きにくい。
聞いてもわからん授業を受け続けるのは、かなりの苦痛やから。
そういう生徒もいる中で、どうやったら「ちょっとやってみよう」と実際に取り組んでもらえるのか、「これはどうなるかな?」と考えてもらえるのか。
加えて、ぼくの赴任校は単位制の高校なので、「単位さえ取れたらいい」と考える生徒も多い。
中には、進級できる分の単位があればいいから、数学の単位は取れなくても他を取ればいいし、と考える生徒もいる。
そんな生徒たちに授業に、数学に取り組んでもらうには、どうすればいいのか。
いかにして単位目的ではなく、学んでもらえばいいのか。
とても、難しい。

と、ここまで書いてて、「何を弱音ばっかり言うてるんやい」「ぐちぐちと不満を漏らしてるんやい」と言う気になってきた。
何かしら、打開策はないものか。

今、顕著に現れてるのは、同じ内容を扱い、同じように授業を展開していても、うまくいっているクラスと全然うまくいってないクラスがある、ということ。
授業は、ぼく一人でやるものではない。授業を受けている生徒と一緒に作るもの。
みんなの協力がなければ、まともに授業をおこなうことなんてできない。
一人一人、日によって調子にばらつきがあるので、みんながみんな毎回ちゃんと授業をうけることができなあかんとは思ってない。
けど、日によってばらつきがあったとしても、「よし、やろう!」と思ってくれている生徒が一定数いると、クラス全体が自ずと取り組む雰囲気が出来上がる。
取り組む雰囲気ができているクラスは、多少の私語はあれど授業の妨害になるようなことをする生徒も少ないので、授業をしやすいし、生徒もよくやってくれるので、定期考査の平均点を見ても明らかに高い。
じゃあ、いかにそのようなクラスの雰囲気に持っていけばいいのか、という話になってくる。
クラスが違えば同じように授業をするとうまくいかない。であれば、何かしら変化を加えないと。
同じ題材を使うからといって、同じ授業にしないといけないわけじゃない。
クラス全体の授業に取り組む雰囲気づくりがうまくいきそうなやり方を考えればいいのか。
クラスによって、やり方を変えて雰囲気を引き出せばいいのか。
うまくいっていないクラスに関しては、大胆に変えていっていいかも。
うん、打開策になるかはわからないけど、やってみようと、試していこうと思うことは定まった。
もっと生徒に目を向け、分析して、取り組む雰囲気を作っていけたら。

と、こんな風に、授業について考える時間をもっととることができればなぁと感じる。
考え、試し、いい方法を探っていきたい。

では、お読みいただきありがとうございました。

数学を「わかる」ことと「解ける」こと

数検1級合格に向けて、毎日短い時間ではありますが、数検に向けた勉強をしています。毎週の数検の勉強報告をやめた後も、勉強は続けることができています。
今までちゃんと勉強する機会のなかった「微分方程式」について学んでいるのですが、理解することよりも問題を解くことができることを重視して、演習主体で学んでいます。
「わかる」ことよりも「解ける」ことを重視した勉強をしている、ということです。

数学を「わかる」ことと、数学の問題を「解ける」こと。この2つって全然違うよなぁと感じます。
わかっていても問題を解けないことはありますし、解けても全然わかっていないことがあります。どちらかというと、解けてもわかっていないことが多いかな、とは思いますが。

大学受験で志望校への合格を目指して勉強していたときは、「解ける」ことに重点を置いていました。「なんで?」の部分に納得がいっていなければ前に進めないこともありましたが、どこかでその気持ちには折り合いをつけて、試験前は問題の演習をメインとする勉強をしていました。
大学に入った後からは、「わかる」「理解する」ことに主眼を置いた勉強が始まりました。特に、ゼミが始まったあたりから、その傾向は一層強くなり、数検に向けた勉強を始めるまでは、解けなくてもいいから理解しよう、理解することが大事だって気持ちで未知の分野を学んだりしていました。つまり、10年以上「解ける」ことは重視していなかったことになります。
でもね、数検を勉強しだしてからは、やっぱり「解ける」ことも大事なんだろうな、という気になっています。それは、理解するだけではなかなか身についていかないから。
大学院を卒業してからも、不十分ながら数学を勉強する時間をとっていました。その中で、新たに理解したことや、知識を蓄えたことはあります。けど、それがなかなか広がりを見せないというか。高校数学の範囲は、全体像をちゃんと把握できている感覚があり、互いの分野の結びつきを掴むことができていると感じる。けれども、大学に入ってから以降に学んだことは、確かに難しいからって理由はありますが、高校数学のように全体を把握した感覚が、いつまで経っても得られないんです。
これは、「解ける」ものが足りていないんじゃないかな、と。

そういう意味で、今数検の合格を目指して「解ける」ことを重視して学び進めているわけですが、これがちょっとでもいいから、自分の中の数学の世界を広げてくれることにつながればなーと思ったりしています。

では、お読みいただきありがとうございました。

ダメなら別のアプローチを試みる

毎日、数検の勉強をしています。
問題があり、その答えを求めるためにあれこれ考える。
求めるもの・与えられた条件を確認し、自分の知識や理解とそれらを照らし合わせて、方針を考えていきます。
忘れていることがけっこうあるので、手探りではあるものの確かこんな感じやったよなーとか思いながら。

ただ、方針を立てて解き進めても、答えまでたどりつけないこともあるわけで。
数学の問題では、「解答」があります。自分で解けなかったとき、そこでついつい解答を見てしまいたいという衝動に駆られてしまいます。

話は変わりますが、ここで、『超一流になるのは才能か努力か?』という本の一節をひきます。

693.何かに上達しようとすれば 、必ずこんな壁にぶつかるだろう 。どうにも前に進めない気がする 、あるいは前に進む方法がわからないという状態だ 。これは自然なことだ 。一方 、どうにも越えられない壁 、迂回したり突き破ったりすることが不可能な壁というのは幻想である 。

上達に壁はつきもの。でもその壁を越えられないことなんてなく、越えられない壁は幻想だ、と言い切っています。
では、壁を乗り越えるためにできることは何か。

664.壁を乗り越えるのに一番良いのは 、別の方向から攻めてみること

何かを上達させていきたいとき、同じ方法でダメなら、別のアプローチを試してみる。上達の壁を乗り越えるのは、それが最もいいのだそう。
どうすればより上達することができるのか。
それって、明確な答えがわからないぶん、簡単ではない。けれども、何度も試しててダメな方法を繰り返すより、違う方法を試みる方が建設的で、前に進むためには必要に思います。

ただ、明確な答えがわからないことに対して何度も違うアプローチを試すって難しく思います。答えがあるのかすらわかっていないので、常に「不毛なことをしているのではないか?」という疑念は消えないわけで。

その点、数学では答えがあるのがわかってる。少なくとも、与えられた問題を解くぶんには、答えが必ず存在します。
だからこそ、解答を見たくなる気持ちをグッとこらえるようにしたい。
だって、答えまでたどりつけなかったときは、別のアプローチを考えるいいチャンスだから。別のアプローチを考えることなく解答を読んでしまうのはもったいないから。
同じものを別の視点から見るってのは、簡単なことではありません。だって、人って見方を固定してしまいがちなので。でも、だからこそ、1回考えたことに対して、別のアプローチを考えてみるってのは、すごく必要なことだと思います。

ダメなら別のアプローチを試みることは、基本的な姿勢として持っておきたいこと。
まずは数学の問題を解くときに実践していきたいと思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

実用数学技能検定の1級を目標に、数学を勉強しようと思います

大学時代、ゼミの先生に「卒業後に働き出すことを考えると、数学の力は今がピークだから」と言われていました。
できるだけ数学の力を衰えさせないように、少しでも学ぶ時間をとりつづけてきましたが、先生のおっしゃるとおりで、知識の面でも思考力の面でも、徐々にあの大学の頃よりも落ちていっている感じがしてなりません。
少しづつでも数学を勉強する時間をとってはいましたが、何かしら目標らしいものを定めず、強いて言えば「この本を読み切ろう」ことをゆるい目標とするくらいでした。
そうやってもう10年近く。
少し学び方を変えてもいいかな、と思い始めました。

受験生の時、毎日勉強していましたが、けっこう楽しめていた記憶もあり、試験に向けて勉強する、ということをしてみようと思い立ちました。
そこで、「数検」と呼ばれている、実用数学技能検定を受けてみようかな、となったわけです。
で、目指すなら1級。
とって何かいいことがあるわけではないですが、「合格」という目標を目指して数学を学んでいくのもいいかな、という思いでちょっと挑戦してみようと思います。

また、きっと今だからこそできる数学の学び方というのがあると感じるのも数検を受けようと決意した1つの理由です。
受験生の時、大学生の時、働き始めてからと、それぞれだいぶと違った学び方をしてきました。その中で、受験生の時とは比べ物にならないくらい、数学について理解してきたと思っています。
大学のときと比べるとだいーぶ劣るとはいえ、試験の「合格」を目指して勉強していた受験生のときとは全然違う見方で、捉え方で、数学を学べるという確信があります。
そのことにワクワクしていて、今から楽しみです。

おわりに

次の試験日は、4月12日。今から半年弱。楽しく学んでいければな、その中で、数学の魅力をまた再発見できればな、と思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

思いつかないこともある。だからおもしろい ー数学からぼくが学んだこと4-

数学はこれまで、何百年も、何千年もかけて発展してきました。
そして、ぼくたちが学ぶ数学は、数学にたずさわる多くのかたがたが、年月をかけて整えてきたものです。
「あーでもないこーでもない」と苦心したうえに出来上がった道なはずです。
数学が何百年も、何千年もかけて発展してきた道を、ぼくたちは10数年で進んでいきます。
考えると、これって、ものすごいスピードです。
過去の数学的知見を最短コースで学ぶことができる道が、ぼくたちには与えられている。
一見その道を歩いていくと、確かにスピーディーにいろんな数学の内容を学ぶことができるかに見えます。


「そんなん思いつかへんわ」
数学を学んでいて、こう思ったことが一度や二度はあるはず。
数学の理路整然な様を見たとき。
証明を理解しようとあがいているとき。
問題が解けず、解答・解説を読んできるとき。
思いつかないと感じるのは、整えられた道を進むがゆえだと思うんです。
何百年、何千年の発展の歴史を、10数年で学ぼうとするがゆえだと思うんです。
ある概念が定義され、その次にはその定義から導かれる定理の証明に入っていく。
さらにその定理からまた新たな定理が導かれていく。
そうして、スススーっと進んでいってしまう。
新しい定義がどんどん出てきて、定理がポンポンと生まれ、問題に鮮やかな解答が与えられていくってのを見せられ続けると、「そんなん思いつかへんわ」だらけになってしまいます。
数学が「思いつき」や「ひらめき」だけを頼りに発展したもののように感じてしまいます。
でも、ちょっと考えてみてください。
数学は、できあがっているその最中から、発展を遂げているまさにそのときから、ぼくたちが学ぶ数学のように整っていたのでしょうか。
そうではないはず。
「あーでもないこーでもない」という苦心を経て、整理されてきたはず。


定義というのは、ただやみくもにされていくものではありません。それを定義する理由が、必然性があります。
定理というのは、ぽっと出現するものではありません。ある事柄を定め、それについて考えに考えて考え抜いた末に出てきたものです。
「思いつき」や「ひらめき」には、必ずその背景が、思いつく理由が、ひらめくストーリーが隠されています。
その思いつく理由は、とても単純な疑問であったりします。
ひらめいたストーリーは、シンプルな問いから生まれていたりします。
ごくごく自然に抱く小さな疑問。そこから数学の世界は広がっていってるんです。
その背景を知らずに、ストーリーに触れずに数学を学んでいくのは、なんともったいないことか。


整えられている道を歩んでいると、その道が昔は全然整えられておらず、でこぼこであった事実を想像する事は確かに簡単ではありません。
つい、ずっとそうであったように、はじめから整った状態であったように思ってしまいます。
整えられすぎているがゆえに、「思い付き」や「ひらめき」の連続であるかのように錯覚してしまいます。
なので、「そんなん思いつかへんわ」と感じることは、ある意味仕方のないこと。
思いつかないこともあるに決まってます。だって、すごい年月をかけて発展してきた数学を、ものすごいスピードで学んでいくわけですから。
でもね、「そんなん思いつかへんわ」と感じ、思いつかないから覚えちゃえってなっちゃうのは、ぼくは嫌なんです。
そんな数学、楽しくない。
「思いつかへんわ」ってなって、もう数学イヤってなってしまうのが悲しい。
数学はすごくおもしろいのに。
だからどうか、「思いつかへんわ」と思っても、そこで見切りをつけないでほしいんです。
思いつかないと感じても、一度立ち止まり、「思いついた理由がどこかにあるはず」ととらえてみてほしいんです。
「あーでもないこーでもない」と考えてみてほしいんです。
「確かに思いつかないかもしれない。けど、思いついた理由がどこかにあるはず」と考え、数学に触れていったほうが、驚きや発見と出会う機会は格段に増えます。
いっそこう考えるのもいいかもしれません。
「ひらめきなんてないはず」と。
そして、ストーリーを明らかにするために、いったん立ち止まり、考えてみる。
それができるか否かで、数学の楽しさは大きく違ってくるように思います。


「”ひらめき”はいらない」」という視点で眺めることができるようになると、それまで思考停止の要因であった「そんなん思いつかへんわ」が、思考を進めるトリガーとなってくれます。
「そんなん思いつかへんわ」。でも、「ひらめきなんてない」はず。じゃあ、「そう思いつく理由を、ひらめいたわけを明らかにしてやろう」と。
思いつく理由さがしや、ひらめきいたわけを明らかにしていく術として、「条件と求めるものを確認」することや「ツッコミを入れる」ことなんかが役立ってくれるのではないか、と思います。

連載のおわりに

数学のおもしろさを、もっとたくさんの人に感じてほしい。楽しみ方を知ってほしい。
そういう思いから、「数学からぼくが学んだこと」を書きました。
ぼくは、数学をおもしろいと、楽しいと感じています。じゃあ、なぜそう感じるようになったのか。どういったことを学んできてそんな思いに至ったのか。それが少しでも伝わればいいな、と考えての連載でした。
ちょっとでもいいから、数学を楽しむ一助になれば、うれしい限りです。

では、お読みいただきありがとうございました。

ツッコミを入れて、ストーリーを読み解く ー数学からぼくが学んだこと3ー

「”ひらめき”は必要でない」という目で数学を眺める。ストーリーを読み解く気持ちで解説を追う。
そうしていくと、問題の解説や定理の証明を読んでいるとき、ことあるごとに「ここはなぜこう考えるのか?」「式を変形すると確かに成り立つ。けど、なぜこう式を変形しようと思うのか?」などの疑問を抱くようになります。
”ひらめき”は必要ではないと思うということは、すべてに対し、「そう考えていく理由があるはず、手がかりがあるはず」と考え、「そう考えていく理由はなにか?」を問い、その答えを探していくことになります。
ぼくはこれを、「ツッコミを入れる」と言っています。ことあるごとに「(そう考えていく理由は)なんでやろう?」と問うていくわけですから。


\(\sin \theta + \cos \theta = \displaystyle\frac{1}{3}\)のとき、\(\tan \theta + \displaystyle \frac{1}{\tan \theta}\)の値を求めよ。

問題を読み、考える。条件と求めるものを確認し、さらに考える。
でも、わからない、解き進めれないことだってあります。はじめからなんだって解けちゃう、なんてことはありません。
そこで解説を読んでいってみます。一行目には、こんな式変形が書かれていました。

\(\tan \theta + \displaystyle \frac{1}{\tan \theta} = \displaystyle \frac{\sin \theta}{\cos \theta} + \displaystyle \frac{\cos \theta}{\sin \theta}\)

解答を読み、こう考えるかもしれません。「なんでこう式変形するんやろう?」「なぜこう式変形しようと思うんやろう?」と。


「なんで?」というちょっとした疑問を大切にしてほしいな、と思います。
ツッコミを入れ、考えてみてほしいな、と思います。


この式変形では、\(\tan \theta = \displaystyle \frac{\sin \theta}{\cos \theta}\)という、\(\tan \theta\)と\(\sin \theta , \cos \theta\)との関係を表す式を用いて、\(\tan \theta + \displaystyle \frac{1}{\tan \theta} = \displaystyle \frac{\sin \theta}{\cos \theta} + \displaystyle \frac{\cos \theta}{\sin \theta}\)と式変形しています。
もしかしたら、「なぜこう式変形しようと思うんやろう?」と考えながら式を眺ると、すぐにその理由がわかる人が多いかもしれません。
ここでは丁寧に、式変形の理由を考えていきます。条件と求めるものを確認しましょう。

  • 条件:\(\sin \theta + \cos \theta = \displaystyle\frac{1}{3}\)

  • 求めるもの:\(\tan \theta + \displaystyle \frac{1}{\tan \theta}\)の値

となります。
求めるものは\(\tan \theta\)で表されているのに対し、条件としては\(\sin \theta , \cos \theta\)の関係式が与えられている。
つまり、このままでは、求めるものに対して、条件を利用することができそうにありません。
となると、条件の\(\sin \theta , \cos \theta\)を式変形して\(\tan \theta\)を登場させるか、あるいは求めるものにある\(\tan \theta\)を変形して\(\sin \theta , \cos \theta\)を登場させるかしたい。
もしそうできれば、条件を利用することができそうだから。
\(\sin \theta , \cos \theta\)を変形して\(\tan \theta\)を登場させるか、もしくは\(\tan \theta\)を変形して\(\sin \theta , \cos \theta\)を登場させるか。
いずれの場合であっても、\(\tan \theta\)と\(\sin \theta , \cos \theta\)との関係を表す式が必要なことに変わりない。
ということで、頭の中にある\(\tan \theta = \displaystyle \frac{\sin \theta}{\cos \theta}\)という関係式を登場させて、式変形していこうと思うわけです。
求めるものを式変形していくほうが、\(\tan \theta = \displaystyle \frac{\sin \theta}{\cos \theta}\)をそのまま代入できるので、話が単純に進んでいきそう。ということで、\(\tan \theta + \displaystyle \frac{1}{\tan \theta}\)に\(\tan \theta = \displaystyle \frac{\sin \theta}{\cos \theta}\)を代入し、

\(\tan \theta + \displaystyle \frac{1}{\tan \theta} = \displaystyle \frac{\sin \theta}{\cos \theta} + \displaystyle \frac{\cos \theta}{\sin \theta}\)

というふうに進んでいっている、ということになります。
条件は\(\sin \theta\)と\(\cos \theta\)、求めるものは\(\tan \theta\)。だから\(\tan \theta = \displaystyle \frac{\sin \theta}{\cos \theta}\)を使ってみようかな、というとても単純な動機を出発点にしているわけですね。


「そう考えていく理由はなにか?」を問う。ささやかな疑問を大切にし、「なんでやねん」と積極的にツッコミを入れていく。考えていく理由に注目し、解説の流れを、そこにあるストーリーを読み解く。
「そう考える理由があるはず」 という目で定義や定理、定理の証明、問題の解説をながめ、ツッコミを入れ、理由が明らかになったとき、一つにつながる感覚を覚えます。道筋が見えるようになってきます。これこれこういう理由で、この考えが出てくる、と。
道筋が明らかになること。一つにつながること。これらは、理解を深いレベルに掘り下げてくれます。
深く理解したことは、忘れにくく、また、自分でその理解を使えるようにもなります。自分の足で、道筋を追えるようになる、ということです。
小さな疑問を大切にし、「そう考えていく理由はなにか?」を問えば問うほどに、ツッコミを入れれば入れるほどに、自分の足で進む力はついていきます。
「あ、前もこんな風に考え、進んでたな」「以前もこの理由で考えてったことあったな」という、既視感を得ることも多くなってきます。
「つながり」の部分がしっかり結びついているので、考えの流れを自分で追うことができるようになる。
それは、「自分で考えていく力」が育っていっていることに他ならないと思うのです。
また、一つにつながった瞬間「なるほど!」と自分の中にピシッと走るものがあります。この感覚は、強烈です。強烈な、快感です。この快感は、学ぶことでしか味わうことはできない。
つながる感覚、つながる快感を得たいから、学ぼうと思えるのかもしれません。


ツッコミを入れ、考え、理解する。
このプロセスを経るか経ないかで、数学に対する向き合い方が大きく変わってしまうように感じます。
関西人になったつもりで、ことあるごとに「なんでやねん!」とツッコミを入れて欲しいな、と思います。
では、お読みいただきありがとうございました。