数学がぼくに「なぜ?」をあたえてくれた

ぼくが数学をほんとうに好きになったのは高校3年生のときです。それまでも国語や社会に比べれば好きと言う感覚はありましたし、テストでも平均点はとることができていたように記憶しています。でも、あくまでも数学はその程度の存在でした。

素通りの人生

高3まではたいした疑問を持たず、深く考え込むこともなく進んでいました。小学校のときに多くの方が疑問に思う「分数の割り算は、分母分子をひっくり返してかける」事実や、中学のしょっぱなに頭を悩ませる「マイナス×マイナス=プラス」であること。こう言う類のものに大した疑問を持たず、「そういうものなんだろう」と割り切って、ただ計算ができるようになってテストである程度の点数がとれて満足していました。

人生の転機

高3までそんな風に歩んできたのが、ある先生との出会いでガラリと変化します。今でもぼくの師匠と崇めている、当時通っていた予備校の先生です。予備校といっても小さな小さな個人塾なのですが、その先生に出会えただけでも行ってよかったと思えます。
その先生の数学の授業は、今までとは全く違っていました。学校では、教科書をノートに写していくような授業しか受けたことはありませんでした。しかし、その先生は違います。数学の本質に迫り、「なぜそうなるのか」を徹底的に教えてくれました。考えさせてくれました。数学に突飛な発想、ひらめきは必要ない。論理的に泥臭く答えまでの道のりを組み立てていくことが大切だと常々おっしゃっていました。
「なぜそうなるのか」という視点で数学を眺めたことの無かったぼくにおっては、今まで学んだことに理由が備わっていくのが快感で、すごく面白いと感じました。「なぜそうなるのか」という視点の大切さを気づかせてくれました。「そういうものなんだろう」と割り切っていたぼくが、「なぜ?」を獲得した瞬間です。

数学からあらゆることへ

受験勉強を通して「なぜ?」を獲得できたことは、ぼくにとっての財産です。「なぜ?」と考えることは、数学に限らずあらゆる方向に向きました。「これなんでやろう?」「どうやったら良くなるやろう?」「伝わりやすいのはどんな言葉やろう?」。普段からそんな疑問の数々を持つことができているのは、数学をしっかり学ぶことができたからだと思います。

おわりに

ぼくは高3のときにその恩師に出会えた幸せ者です。
これから数学を教える立場として、数々の生徒との出会いを果たしていくことになります。生徒にとって、ぼくもそんな存在になることができたら、これ以上の幸せはないな、とそう感じます。そうなるためにも、これからも日々、学び続けていきたいなと、そう思います。
では、お読みいただきありがとうございました。

おわりにのおわりに

これを読み、「概念の拡張と日常への適用」という本ブログのエントリを思い出しました。
このエントリが書かれたのは、今から10年前。対して、「概念の拡張と日常への適応」はそれから3年後に書かれています。

数学では、新しく世界を広げるために、「概念を拡張する」ことがある。頻繁にある。ということは、数学に触れることで、概念の拡張を数多く経験できる、ということになる。この経験が、数学の力を日常へと拡張することにも、役立っている、と思う。

ということを「概念の拡張と日常への適応」内で書いているけど、自分自身、それを強く感じていたんだな、ということを再確認しました。
数学で身につけた力は、ぼくにとってはすごく重要な、人生を大きく転換させたと感じるので、できるだけ何かしらの力を身につけてもらえるよう、数学を伝えていきたいと思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

「教える」よりも「引き出す」に重点を置く

ぼくの好きな本に、「プロ研修講師の教える技術」というのがあります。
なぜこの本を購入するに至ったかと言うと、”はじめに”でこんなことが書かれていたからです。

「こちらが、詳しくていねいに話す」のではなく、「こちらの説明はポイントだけで、答えは相手に見つけてもらう」

プロ研修講師の教える技術

寺沢 俊哉 ディスカヴァー・トゥエンティワン 2011-10-16

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この考えにすごく共感し、思わず購入したわけです。”教える”よりも、答えを”引き出す”ことで授業を組み立てていき、話を進めていく。初任校でみんなの前に立って教えはじめてしばらく経ったころから、その重要性に気づき、意識し始め、そこから数ヶ月が経った頃、本書と出会いました。

予備校での日々

少し過去を振り返ってみると、大学に入ってから大学院を卒業するまでの6年間、ぼくは予備校で講師のバイトをしていました。メインは個別指導で、1対2〜3で数学を教えていました。相手は受験生で、最大の目標は「志望校に合格すること」。
合格点に達するかどうかが一番の課題なので、言ってしまえばパターンや解法の暗記でもいいから問題が解けさえすればいい。とはいえ、数学を学ぶからには、問題を解くときには頭を使って考えてほしい、脳みそを鍛えてほしいという思いが常々ありました。
それはただのぼくのエゴなのかもしれませんが、なんとか質問を多くしながら生徒に考えてもらい、意見を引き出す努力をしていました。でもやはり、”教える”という意識が強かったように思います。

算数を教える日々

そして初任校は特別支援学校で、担当の1つとして数学の授業を持っていました。数学という教科名をしてはいますが、内容は算数。算数を教えるのはとても難しく、反省の多い日々でした。その時の話です。

教えはじめてしばらく経ったころから、悩みの多かった数学の授業が、すごく楽しくなってきました。予備校時代もとても楽しみながら授業をしていたのですが、それを上回ります。なぜそんなに楽しくなったのか。
それは、”みんなの意見をきく”ことを主体とした授業構成にしたからです。
授業なので、もちろん身につけてほしい考えや計算という目指す目標はあります。でもそこまでこちらがグイグイと引っ張っていくのではなく、みんなの言葉を引き出しながら、こちらはその意見をもとに目標に向かって行くというスタンスです。これが楽しい。予想外の意見や、こちらの予想を超える考えがバンバン飛び出してくるからです。
みんなの意見に驚きながら、それを拾い、拡げながら授業を展開していくのがほんとうに楽しい。

”引き出す”ことが大切

考えて、頭を働かせていないと自分の意見を持つことはできません。みんなからいろんな意見を聞き出すことができているということは、しっかりと考えている、頭を働かせている証拠だと思います。
予備校時代からの「学ぶからには頭を働かせて考えてほしい」という思いが、いくらかは達成できていたのではないか、と感じます。こうしてみんなの意見・考えを聞き、ぼく自身がすごく楽しみながら授業ができているので、それは生徒みんなにも伝わっているはず。以前より意見が活発に飛び出すようになってきていると感じます。

”引き出す”。そのためにはやはり準備が大切。
どこまで材料を与えるのかはとても難しい。材料を与えなさすぎると、生徒はどうしていいかわからなくなりますし、玉に材料を与えすぎたり、質問しすぎると誘導尋問みたいになってしまいかねません。その微妙なライン攻めるのがまた楽しかったりするのですが。
考えを引き出す授業構成も大切ですが、自分の意見を言いやすい雰囲気づくりもとても大切になってきます。
授業中のクラスの”空気”には細心の注意を払いながら、意見を言いやすい良い雰囲気を保つこともとても難しいものです。「考えを促す授業構成」と「意見の言いやすい雰囲気づくり」は、今一度取り上げていきたい目標です。

おわりに

”教えている”という意識は、少し間違えると「教えてやっている」やら「これだけ言ってなぜわからないんだ」という気持ちを誘発してしまう危険性があります。もう一度本の内容を引用させてもらいますと、

「こんなことがわからないのか!」ではありません。
「こいつ、人の話を聞いていないんじゃないか!」ではありません。
伝わらないのは、教える側が悪いのです。

まさにそのとおりなのでしょう。これからもずっと”教える”よりも”引き出す”ことに重点を置きながら、生徒みんなと楽しみながら進んでいければなとおもいます。

では、お読みいただきありがとうございました。

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抽象化の先に待っているものが感じられるTED動画

小学校で学ぶ算数と、中学校以降に学ぶ数学。このふたつには大きな違いがあります。
よく「算数は普段使うから必要やけど、数学を普段使うことはない。やから必要ない」って意見を聞いたりしますが、「必要ない」という部分以外はまさにそのとおりだと思います。「算数は普段使うから必要やけど、数学を普段使うことはない」。だって、扱う対象が違うんですもの。

算数で扱うのは、”具体的”です。具体的な数を扱い、数に関する知識を学びながら、四則演算を習熟していきます。に対して数学で扱う対象は”抽象的”なもの。数学では「文字式」を筆頭に、普段の生活ではなかなか出てこない、抽象化された世界へと踏み込んで行きます。
だから「算数は普段使うから必要やけど、数学を普段使うことはない」んです。ただ、必要ないことは決してないですが。

抽象化してなんなのさ

じゃあ、抽象化していったいなんだというのでしょうか。

中学校に入り、いきなり度肝を抜かれるのが、文字式だと思います。
それまでは500とか1.2とか具体的な数字を用いていたのに、なんだかxとかyとかが登場してきて、それで式を表現したりします。抽象化された世界への第一歩を踏み出すわけです。

算数の有名な問題で「鶴亀算」というのがあります。鶴と亀の数とその足の総数からそれぞれ何匹いるのかを求める問題です。

算数の世界ではあくまでも具体的な数を扱うので、まずは「すべて鶴であるとする」という仮定から始めての、総数を求めて行きます。それはそれで大切な考え方を学ぶことができるのですが、文字式を獲得したあとであれば、”方程式”という強力な武器が使えるようになります。こっちの方は鶴亀算のみならず、いろんな問題に応用可能です。

具体的な世界を離れる、ということは、応用範囲を広めることにつながります。

「ロバートラングが全く新しい時代の折り紙を折る」

抽象化することの恩恵がすごく感じられる動画が、TEDにあります。それが「ロバートラングが全く新しい時代の折り紙を折る」。

とにもかくにも動画を見て欲しいなと思います。「折り紙もすごいとこまできたもんだ」と感心すること請け合いです。

ロバート・ラングが全く新しい時代の折り紙を折る | Video on TED.com

今回注目して欲しいのは、折り方をコンピュータに計算してもらうことができるようになるまでの話の部分です。
そこでは、いろんな折り方のすべてに共通する要素を抜き出してしまうと、たった4つの法則にたどり着くことができる、ということが述べられています。
折り紙には古くから培われてきた、本当に様々な折り方ってのが存在します。これまでは一つ一つ折り方を編み出してきたわけですが、すべての折り方に共通する法則を抜き出すことで、折り紙の世界はとたんに広がります。
簡単な骨組みを考えることで折り方をコンピュータにはじき出してもらうことができるようになったんですから。
具体物の一つ一つをから構成されていた折り紙の世界を、すべての折り方に共通している要素、”4つの法則”を抜き出すことで抽象化し、単純な要素のみで表現することで、しまいにはコンピュータに計算してもらえるようにしちゃったわけです。
コンピュータの技術がどんどん高まっている現在、こんな事例はこれからも出てくるのではないかなと思います。

おわりに

というわけで、TED動画「ロバートラングが全く新しい時代の折り紙を折る」を見ることで、抽象化の恩恵を感じ取れるのではないかなと思います。
抽象化するってのはとてもすごいことなんですけれども、抽象化されたら具体を離れるということで、目に見える対象ではなくなっちゃうんですよね。やっぱり普段の生活で扱うものは具体的なものばかりなんで、対象が抽象的なものである「数学」という学問は「別になくても困らないし、必要ないでしょ」って結論に至っちゃう人がとても多いんでしょう。
でも、だからこそおもしろい面もあるわけで。そんなのをこれからも紹介できればなと思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

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教え手は”今の自分”を基準にしてはいけない

どんな職業・立場であれ、「これはこうするんだよ」であったり、「こういうことだよ」と伝えたり教えたりすることってあると思います。で、そんなときに「言うたのになんでわからへんねん」「さっきのん全然伝わってなかったんかいな」って感じたことってありませんか?
この状況の原因は、一概には教え手/学び手、あるいは伝え手/受け手のどちらが悪いとは言い切れません。教え手は、ちゃんと説明したのにわかってくれないと、学び手を責めがちになったりしますが、ちょっと立ち止まって考えてみて欲しいと思うんです。

”今の自分”を基準に物を言っていないか?

ぼくは、基本的には数学の教え手です。数学については、今までいっぱい学んできましたし、これからもたくさん学んでいくことでしょう。学ぶことは、自分お知識や経験が増えていくため、良いことではありますが、その反面、学べば学ぶほど”学び始め”からは遠ざかってしまいます。
教え手であるぼくが数学を教えるのは、”学び始め”である学び手のみんな。
この時点では、教え手と学び手の知識や理解、経験が違うので、言わば距離が離れた状態。もしぼくが今の自分を基準にうんじゃかんじゃ話したとしても、学び始めの学び手にはほとんど伝わらないという、不測の事態に陥ってしまうでしょう。
当たり前のことですが、当たり前すぎて忘れ去られていることでもあります。人は、当たり前なことほど意識外に放り出してしまうものなので。

距離を縮めることを、常に意識する

教え手と学び手の距離を縮めようとする意識は、常に持っておきたいものです。もちろん教え手が。学び手に「教え手に合わせて話をしなさい。教え手と同じレベルで理解をしなさい」と言っても、到底無理なので。
学び手には、知識の量・理解の度合いには限界があり、教え手との距離を縮めたくても現状どうすることもできません。教え手が学び手に歩み寄り、距離を縮める。そのためには、学び手側の今の知識量・理解の度合いをイメージする必要があります。そのイメージの元となるのは、過去の学び始めの頃の自分であったり、他の違う学び手に教えた時の経験であったりします。
また、質問の内容は、丁寧に確認することも求められます。教え手と学び手は知識や理解に差があるわけですから、学びてからの質問の内容を教え手が間違って把握する、なんてことはよくあること。それでは距離は縮まりようがない。
距離を縮めるために、学び手の今の状況をできるだけつかみ、イメージする。そういったことが大切であるように感じます。

おわりに

「なんだか伝わらないなぁ」と感じたら、学び手との距離が離れていないか?に目をむけるのもいいのではないでしょうか。伝わらない原因は1つではないにしろ、距離が離れてしまっているというのは大きな原因の1つになり得ます。

今回書かせてもらったことは、職業柄、教え手になることがほとんどの自分が意識したいことです。教え手という立場ばかりにいてしまうと、忘れてしまいがちなことなので。人は、当たり前なことほど意識外に放り出してしまうものです。この当たり前のことを意識外に放り出してしまわないためにも、こうして思い返し、考えることは有効かなとおもいます。

理解しちゃっていても、まだ理解に至らずうんうんと頭を悩ませる状態をイメージすることはできるはず。

では、お読みいただきありがとうございました。

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「黒板の前に立ち全体に向かって講義する形」ではない授業を試す

ぼくは、高校で数学を教えています。
赴任している学校が「学びなおし」の学校でして。
小中学校で学んだことを1年間でどう復習し、高校数学につなげるか〜新しい授業の形について考える①〜でも触れましたが、学びなおしということで、勉強を苦手としてきた生徒がけっこういます。そこで、毎日30分間、小中学校で学んだことを復習するという授業形態(モジュール授業)をとっており、国数英に関しては毎日授業があります。その授業も他と同様、基本的には前で教員が解説する講義形式で授業しているのですが、やり始めたときから全く違ったものにしたい、と考えていました。

数学がすごく苦手な生徒もおり、これまでの経験から、学ぶ意欲が失われているのでは?と感じる生徒もいます。
モジュール授業では、2クラスを習熟度によって3つのグループに分けており、ぼくはその中で一番数学が苦手な生徒が集まるのクラスを担当しています。
小学校2、3年生あたりの内容でも正確に解くことができなかったり、小数の計算になるとクラスの半分は正解に至ることができず、分数ではさらに3分の2は足し算・引き算ができない、というような感じです。
その生徒たちに、集団講義という形、前で教師が生徒とやりとりしながら解説していく形で、小中の内容を1年間で復習するわけです。が、どう考えてもそれでは生徒が計算を身に付けることができるようには思えないわけです。
そこまで数学が苦手であれば、おそらくは小学校の頃から何らかのつまづきをしているはずです。小学校の授業形態は、基本的には集団抗議の形になるでしょう。もちろん、生徒同士のやりとりや1つの単元にかける時間数は、モジュール授業よりも多いはずです。そこで、何らかのつまづきがあった生徒が、今、モジュール授業を受けている、と考えていいと思います。
そんな生徒相手に、相変わらず集団講義の形式で授業をするのは、しかも小中学校の時代よりも短い時間で多くの内容をこなしていくのは、どう考えても生徒の力を伸ばす結果にはならない、と思うわけです。

  • 小中学校の頃よりも短い時間で進んでいかないといけない。
  • そのため、小中学校でやっている授業よりも一つ一つの内容をじっくりやっていくことができない。
  • モジュール授業の相手は、小中の授業を受けても十分に理解できず、どこかでつまずき、取り残されてしまった生徒達。
  • であるにもかかわらず、小中学校の授業と同じように、教師一人が、生徒多勢に黒板を用いて授業する形態をとっている。

そんな中で数学の力を、基礎的な部分を伸ばすことができる生徒は、ほんのほんの一握りでしょう。もしかしたら、一人もいないかも。
そう感じていたため、集団講義の形式での授業をするのはもうやめにしないか、と常々思っていました。

今年度の授業があとわずかとなり、試しに教師が黒板の前に立ち全体に向かって講義する形ではない授業を試すことにしました。定期考査対策のプリントを配り、その解説動画を見て、自分のペースで勉強を進める形を。
わからない部分があれば、これまでに書いたノートを見返し、見ながら解いてみる。それでもわからなければ、プリント上に印刷されているQRコードをスマホで読み取り、動画を見て学ぶ。それでもわからないところは、教員が個別に対応する。そんな授業です。
1回目の授業は、物珍しさもあってかとても手応えのあるものでした。
いつもは私語が目立つ生徒や、わからないからとすぐに顔を伏せてしまう生徒が、熱心に動画を見ながらプリントに取り組んでいたんです。
みんな見慣れているので、操作もお手の物。わからないところは一時停止し、ときには巻き戻してもう一度見返したりしながら集中してくれていました。
「このほうがいい」という生徒の声も聞け、とても収穫のある授業となりました。
もちろん、問題点はたくさんあります。
関係のない動画を見るかもしれないですし、スマホが使えてしまうとメールやSNSなどに気を取られてしまう恐れがある、教員1人が個別に対応できる人数には限界がある、などなど。
とはいえ、それらの問題点を解消する策はありそうですし、効果的にこの授業の形を取り入れることはできる、という感触を得ることができました。かなり大きい収穫だと感じています。

次年度は、講義形式と動画を用いての授業を、どう効果的に織り交ぜていくか、が焦点になってきそうです。

では、お読みいただきありがとうございました。

思っていたよりも色々と読めていた2020年の「びっくら本」 #mybooks2020

なかなか思うように読書の時間がとれていません。
とはいえ、本を読まない日はなく、毎日ちびちびと、少しずつ少しずつ読み進めています。
そのおかげか、2020年を振り返ると、それなりにいろいろな本を読むことができていました。
読んだのに読んだことを忘れていたりするのですが、一年に一度、この時期に思い返すことができ、毎年、この「びっくら本」を機会に今年の読書をかみしめます。
いつもと大きく違う一年でしたが、いつもと同じように本を読むことができ、嬉しいです。

なぜ心は病むのか いつも不安なひとの心理

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『なぜ心は病むのか いつも不安なひとの心理』(アルフレッド・アドラー)

これまで色々とアドラー心理学の本を読んできました。その中でも本書は、アドラーがどのように人を見ているか・捉えているかということが一番わかる本だと感じました。
であるがゆえに、とても興味深く、面白く読むことができました。
本書はアドラーの著作の翻訳であり、数冊のシリーズになっているので、とりあえずすべて読みたいな、と思っています。

ブレンディッド・ラーニングの衝撃

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『ブレンディッド・ラーニングの衝撃』(マイケル・B・ホーン、ヘザー・ステイカー、小松 健司)

授業そのものを上手くなりたいという気持ちがずーっとあります。うまい授業をすることができれば、それを聞いている生徒の数学の取り組みもよくなるのではないか、という思いがあって。
一方で、授業の仕組みが、生徒の取り組みに大きく関わるのではないか、とも感じています。
それは、今の学校に赴任して、とても強く感じていることです。
本書のブレンディッド・ラーニングは、特に授業の仕組みについての固定概念を強烈に揺さぶってくれます。
授業に使える道具は、黒板とチョークから大きく変わりつつあります。
一度、これまで使っていたことはすべて忘れて、固定的な考えをぜんぶ取り払って、授業に有効に活用できそうなものは貪欲に取り入れていく姿勢が、今後必要になってくるのではないか、と思っています。

「書くための名前のない技術」シリーズ

これは、シリーズを読めば読むほど面白くなっていく類いのもの。
3つのケースを読みましたが、ほんとに3者3様で、それらの違いが、お互いの「名前のない技術」を際立たせているように感じます。
シリーズが増えるごとにその違いは多様になっていくので、続きが出れば出るほどおもしろくなっていきそうな感じです。


今年の読書は「全然読めてないなーもっと読みたいのになー」という感覚だったのですが、2020年の1年間で読んだ本を振り返ってみると、しっかり読めていて、いい出会いもあったなぁという印象に変わりました。
とはいえ、やっぱりもっと読みたい。知りたい。学びたい。
ということで、一気に10冊ほど本をまとめ買い。
ずっと欲しいなぁと思っていた本を中心に、読む時間が取れるかなんて気にせずとりあえず手に入れときました。
その中には、もしかしたら来年のびっくら本が含まれている、かも。
楽しんで読んでいきたいと思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

小中学校で学んだことをどう復習し、高校数学につなげるか〜新しい授業の形について考える②〜

モジュール授業の目的は、一言で言うと

  • 小中学校の学び直し

とされています。
高校1年生は、モジュール授業にて小中学校で学んだことを学びなおす。なんのために?それは、高校の内容を理解できる、考えていける素地を作るためではないか、とぼく個人は考えています。
実際にやっていなので想像でしかありませんが、小中学校では、導入から工夫し、児童生徒の考えを広げながら授業を展開し、意見をまとめながらに進んでいく中で、理解につなげていく、と言うことをやっているのでは、と思います。これをやっている小中学校の先生は、本当にすごい。
その、時間をかけて、児童生徒の意見を捉えながら授業をし、理解につなげてきた小中学校で、なかなか理解につながらずつまづきのみられた生徒たちが多いのが、本校の生徒。その中で、高校1年生の1年間で、小中学校の内容を全て理解する、と言うのはかなり無理のある話で。
となると、到達点を「理解」に置くとかなり厳しいものになるなぁ、と思ったので、問題を「解けるようになること」を目標にしようと考えました。しかも、全ての内容ではなく、主要な部分、扱う部分に絞って。
もちろん、理解もして欲しい。けど、一気に理解することもあれば、何度も何度も取り組む中でわかってくることもある。
どこかしらで数学が嫌になってしまっている場合、取り組むこと自体が嫌になっている場合も多いので、解けるようになることでそこを突き崩す、と言うのが狙いです。

1年間で小中の内容を全て理解するのはかなり厳しいし、全ての内容に触れることすら難しい。
じゃあ、やる内容を絞りに絞って、高校で扱う題材に出てくることのみにしてしまいたいな、と。
で、それらを理解することが目標ではなく、とりあえず解くことができるようにしたい、と。
その、絞りに絞った内容を「全部やる」ように、全部できるような授業形態にしたい、と。
で、生徒に要求するのは、絞りに絞った内容を、「解けるようになる」こととして、高校で扱う数学につなげることはできないものか、と考えました。

加えて、本校の生徒は、結構休むし遅刻します。となると、受けている授業が飛び飛びになってしまいます。
理解を積み重ねていく教科である数学にとって、内容が飛び飛びになってしまうのは、進んでいく上でなかなかに厳しい課題でして。前回の内容を前提として今回の授業を行うことがほとんどなので、1回でも抜けてしまうと結構痛いわけです。
なので、なんとか休んだり遅刻で抜けた授業も受けさせたい。でも、一斉授業で進度を固定してしまっていたら、一人一人の進度には対応できない。みんなが毎日休まずきてくれればいいけれども、それはなかなか期待できない。
そう言う生徒であっても、理解を積み重ねていけるような授業の形態はないものか、と考えました。

遅刻・休みがちで授業がポツポツ抜けてしまい、ちゃんときてみたら授業が分からなくなってしまっている生徒。
毎日きてるけど、数学が苦手でもはや今やっている内容がちんぷんかんぷんな生徒。
それらの生徒でも、絞りに絞った内容に関しては「全て解ける」ようにならないものか。

と言うことを考えた結果、「完全個別進度の授業」がいいのではないか、という結論に至りました。

一人一人の進度がみーんな違う授業。
授業を休んだとしても、休む前の続きから学ぶことができる授業。
苦手な部分があれば、わかるまでじっくり時間をかけられる授業。
とにかく、自分のペースで学習を進めることができる授業。
それらを実現する、「完全個別進度の授業」です。

完全に個別の進度に対応する、となると、教員の数が決定的に足りません。
現状は、70名を3クラスに分け、教員3人でそれぞれのクラスで教えていのですが、完全個別進度となると全体での講義ができないので、一人一人に対応する必要があり、それは3人の教員では無理のある話で。

そこで昨年度の年度末にぼくが提案してみた授業は、

  • ビデオ教材を活用し、全生徒が進度を自分で決められる、完全個別進度の授業にする

というもの。
この考えに至ったのは、もちろんいくつかの理由があって、

  • 目的は、「全ての生徒が、定められた内容を全部やる」こと。
    • 授業を休んだとしても、全部やる。
  • となると、全員の進度が違っていることに対応しなければいけない。
    • 毎日出ている生徒は昨日の続きから、休んだ生徒は前回の続きから、ってのに対応できなければいけないので。
  • 生徒が進みたいだけ進めるようにすればいいのではないか。
    • 完全に個別の進度になる。完全個別に対応できるような形態をデザインする必要がある。
    • ビデオの力もかりるのはどうか。幸い本校には、生徒が使えるPCがある。

ということを考えての、「ビデオ教材を活用した、完全個別進度の授業」という案。

前で先生が黒板を使って教える、というスタイルとは全く違って、実際やってみたらどうなるか読めない部分が大きく、導入には慎重にならないといけないと思います。が、真剣に検討してみる価値はあるのではないか、と考えております。

再度数学科の先生方に提案をして、全員で授業の改変について真剣に考えているところです。

では、お読みいただきありがとうございました。

小中学校で学んだことを1年間でどう復習し、高校数学につなげるか〜新しい授業の形について考える①〜

例えば、高校の1年間を小中で学んだことの復習に使えるとします。
時間は、毎日30分。週5日で150分。
加えて、勉強が苦手というか、小中学校のどこかしらで算数・数学につまづきがあり、十分に身についてない生徒がほとんどだとします。
その状況で、じゃあ毎日30分の数学の授業をどんな授業にするか。
何を、どう学ぶのが良さそうか。
高校2年生になったら、数Ⅰの授業が開始していくとするならば、1年生の1年間をどう使えば良いか。


ぼくの務める学校では、国数英に関してはこのような毎日30分の授業があります(モジュール授業と呼ばれています)。
今年初めて、ぼくはこの、毎日30分間の授業を担当することになりました。
モジュール授業は、学校としては今年で3年目。
手探りで始まった1年目、それを修正した2年目、で、今3年目。
担当してなかった2年間は、実際に自分では授業してなかったものの、どう考えても今のやり方は良くないと感じていました。
実際、今年度に入る前に、モジュール授業をまったくガラリと変える提案をしてみたりもしました。けど、今までと根本的に違う、扱う内容ならまだしも授業形態自体が大きく異なる提案であったからか、はたまた話した内容がうまくはいかないように感じられたからか、同じ数学科の先生たちの同意を得られず、提案は却下。実現できず。
今年度に入り、モジュール授業を実際に担当してみているわけですが、やはり今のやり方はよろしくないと言う考えが確信に変わりました。


  • 小中で習ったことを高校数学につないでいくためには、なにを、どう学んだらいいか。
  • 数学が苦手で、算数の内容からつまづいている生徒もいたりする中で、どのように小中の内容を復習していくべきなのか。
  • よく休む・遅刻するために、授業を飛び飛びにしか受けていない生徒がいる中で、いかに多くの生徒の数学の力を伸ばしていくか。

と言うことを考えてきました。
多くの人が持っている「学校での授業」というイメージはいったん頭から除けておいて、どんな授業形態にすればいいか、と言うのを考えているつもりですが、自分の考えだけよりも、いろんな意見を合わせた方が、きっといいものができるのでは、と思っています。
現状は、同じ学校の数学科の先生方、また別の教科の先生に自分の意見をどんどん話してみて、批判的な意見を含めてどしどしアイデアをもらおうとしている最中です。
なので、これを読んで、何かしらの案や意見、思いついたことがありましたら、教えていただければすごくすごくありがたいです。

では、お読みいただきありがとうございました。

知的生産その5「授業」〜一個人の、知的生産・タスク管理の技術15〜

授業」を組み立てるときにも、頭をはたらかせます。生徒にわかるかたちはどういうものを、どういう順序で、どういったように伝えたらいいか、を。
ただただ考えるわけではなく、段階によって少し考える方法や用いるものがかわってきます。

章ごとに

数学の教科書は、数学を伝える単位として、内容ごとに「章」や「節」に分かれています。新たな章に入るときに、その章全体のロードマップを思い描きます。もちろん、高校には定期考査というものがあるので、考査によってその「章」や「節」は分断されるのでそれも考慮に入れつつ、最終的な目標と、そこに至るまでの道筋を考えます。
ここで用いるのが、紙とペンiPadApple Pencilではなく、です。なぜかというと、この段階では、書くスペースの大きさの制約が考える妨げになってしまうから。
最低でもA4サイズ、理想はA3サイズの紙に、最終的な目標に至るためにはこういうことを押さえて置きたいというものを書き出していきます。配置に気をつけつつ、でもそこまで神経質にならないように。教科書の内容と照らし合わせつつ、道筋を描いていきます。
この段階では、アウトライナーを使うこともあります。どういった順序で進めていくかを考えるので、道筋としては直線的です。そこがアウトライナーとマッチすることもあるので、時に大きな紙を、時にアウトライナーを使って考えます。

毎回の準備

章ごとに流れを考えて置き、次に毎回の授業前には今回の授業では何をどのように伝えていくのか、を考えます。
この時にもA4サイズの紙をよく使います。毎回の授業を考える時には、基本的に考えた後は捨てしまっても差し支えはないので、裏紙に、今回の内容をどうやって伝えようか書きながら考えます。
そしてある程度まとまった後は、iPadとApple Pencilの登場です。というのも、板書計画は、配置や言葉をなんども修正しつつ完成に向かうことになるので、何回でも修正可能で、言葉の配置の修正に優れているiPadのノートアプリがうってつけです。加えて、そこに書いた板書計画の一部を黒板に投射して授業をす流、というスタイルを取っているので、その点においてもiPadで計画していた方がいいわけです。
そして、板書の補助になりそうな部分をスライド化して置きます。

授業では

授業では黒板にチョークで、重要な部分や押さえてほしいことを書いていくわけですが、書くのに時間を取られすぎるのもよくないかな、と思い、書き写してほしい問題文などはあらかじめスライドの中に盛り込んで置き、その内容を黒板に投射し、そこに書き足していくスタイルで授業をしています。
しっかり集中して話を聞いてほしいので、なるべく話す時間は短く、そこでの理解をノートに書いて置けるような進め方をイメージしています。

授業は、頭をはたらかせて、数学の内容を生徒にわかるかたちで提出する場になります。
まだまだまだまだ全然うまく授業できていないので、なんとか少しずつでも数学を伝えることをうまくなっていきたいなーと思うばかりです。

知的生産その1「知的生産とは」〜一個人の、知的生産・タスク管理の技術11〜

タスク管理についてはひと段落したので、今後は知的生産について考えていきたいと思います。

知的生産

「知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ」

『知的生産の技術 (岩波新書)』(梅棹 忠夫)において、知的生産は上記のように定義されています。ぼくも、この定義のもと、話を進めていきたいと思います。

では、実際にぼくの環境で、置かれた状況で、活動の中で「知的生産」と言える部分はどこか、というのを考えてみますと、このブログも仕事でおこなっている日々の授業も、仕事の一つ一つにおいても、知的生産の要素を多分に持っているなーと感じます。
ブログは、なにかを書く行為です。もちろん、頭をはたらかせます。考えないと、ちゃんと文章は書けません。新しい事柄を提示できているかはわかりませんが、誰かにとって何かの役に立ってくれればいいな、誰かにとっての新しい事柄であってくれればいいな、という気持ちをもちつつ、書いています。実際、自分でなにか新しいことを試してみて、考えたりやってみて、それをブログで書くことが多いので、その時点ではぼくにとっては新しい事柄なわけで。ということは、それを書けば、誰かにとっては新しいと感じることかもしれないので、「新しさ」については、そこまで気にすることはないかな、と思ったりしています。で、書いたものをネットの世界に提出しています。なので、ブログを書くのは知的生産の一つと呼んで差し支えはないかな、と思います。

ぼくの職業は、教員です。教えることが仕事です。日々の授業は、知的生産の場である、と思っています。
授業を考えるときは、もちろん頭をはたらかせます。はたらかせまくります。生徒にとっての新しい事柄をどうやったらわかりやすい形で提出できるのかに尽力します。そこには、ただ新しい事柄を提出するだけでなく、いかにわかりやすく、興味を引くような形で、しかも教えすぎず、生徒自身が考え発見できるような形はどんなものか考えながら、加えてどうやって20〜30人の集団に対して身に付けてほしいものを伝えていくかを日々実践しています。と書いたものの、なかなか十分に取り組めていない現状があるのですが。ひとにわかる形で、しかも身につく形を模索して、伝えていく行為が授業だと思うので、紛れもなく知的生産である、と言えます。

仕事の一つ一つも知的生産の要素を多分に含んでいます。何かの書類を作るにしても、ただ書けばいいというわけではなく、その書類を意味のあるものにしようと思えば、他の人がわかる形で書くことが求められます。形式的に書かなければいけない書類もなかなかに多いのが現状ですが、会議の資料なんかは、ちゃんと頭を働かせるべきときでしょうし、みんなで問題を解決するために必要な情報を、まだ皆さんが知らないことがらを提出することが多いわけで。
もちろん、会議をどう進めるか、展開するのか、なんて考えることも情報を提出する上では重要な要素となってきそうです。
と、考えると、資料ひとつとってもそこには知的生産があるなーと思うわけです。

とまぁ知的生産の風呂敷を広げたわけですが、今回はなかでも「ブログ」と「授業」についての話を中心に展開して行こうかなと考えております。

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