他の人のを見るよりも、自分で作った方がはるかに理解が深まり、活用へとつながりやすい

「ルーブリック」というものが、新しい評価基準として注目されてたりされてなかったりするらしいです。
今、高校3年間を通して、どういった進路学習を日々の授業の中に組み込んでいけばいいかじっくり考えています。外部のNPO法人に協力していただき、来年度に向けて目指す生徒の姿などを時間をかけて練り込んでいっている段階です。で、そこでルーブリックというのを作成しているのですが、実際にこういったものを作成するのは初めてのことで、ルーブリックの存在すらあまり知りませんでした。

ただ、ちょっと思い出してみると、ルーブリックを目にし、自己評価をした経験がありました。それは、去年の10年経験者研修でのこと。
教職員としての評価をするための壮大なルーブリックが提示され、それを見ながら各項目に関して自分はどの段階にいるか、ということをまず確認します。そして、次の段階に至るためには何が必要か考え、1年間の研修を計画する、ということを研修の序盤でおこないました。そういえば。

研修におけるルーブリックは、項目数が多く、レベルも5段階ほどだったように思います。
それを見た瞬間、「うっ。」とした記憶がありました。
それ以上に、そこに書かれていることが頭にほとんど入ってこなかったことを覚えています。

ただ、進路学習のためのルーブリックを作成していて、これを活用することができれば、より明確な狙いをもった授業を考えることができると感じますし、生徒一人一人が目指すところも見えてくるように思います。

進路学習のためのルーブリックと、10年研修のルーブリックの一番の違いは、「自分で作成したか否か」。
これはかなり大事なところだと感じます。
自分たちで作成した、進路学習のためのルーブリックは、十分に全体を理解しているが故、活用できそうな感覚を持てています。
一方で、提示された10年研修のルーブリックは、その壮大さも相まって、なかなか全体像を捉えることができませんでした。
でも、壮大なものであったとしても、それが自分で考えて作成したものであれば、全く違った印象を抱くと思います。

で、これは、生徒に提示するときにも同じことが言える、ということ。
他の人が考えたルーブリックをただ単に提示されても、おそらくは頭には入らないでしょう。
理想は、多分自分たちで話し合いながらルーブリックを作成していくこと。
でもそれが難しいのであれば、ルーブリックの各項目・段階についての丁寧な説明が必要ではないかな、と感じます。
少なくとも、提示するだけで頭に入り、活用できる生徒はなかなかいないと予想されます。


自分でルーブリックを作成してみて、他の人が作ったものを見るよりもはるかに内容を理解でき、活用へとつながっていくという当たり前のことが実感を伴って理解できました。
また、こちらが作成したものを提示する上で気をつけなければいけない点も予想できるようになりました。
やはり何かしら自分で試してみないとわからないことは多いな、と改めて感じた出来事でした。

では、お読みいただきありがとうございました。

「教える」よりも「引き出す」に重点を置く

ぼくの好きな本に、「プロ研修講師の教える技術」というのがあります。
なぜこの本を購入するに至ったかと言うと、”はじめに”でこんなことが書かれていたからです。

「こちらが、詳しくていねいに話す」のではなく、「こちらの説明はポイントだけで、答えは相手に見つけてもらう」

プロ研修講師の教える技術

寺沢 俊哉 ディスカヴァー・トゥエンティワン 2011-10-16

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この考えにすごく共感し、思わず購入したわけです。”教える”よりも、答えを”引き出す”ことで授業を組み立てていき、話を進めていく。初任校でみんなの前に立って教えはじめてしばらく経ったころから、その重要性に気づき、意識し始め、そこから数ヶ月が経った頃、本書と出会いました。

予備校での日々

少し過去を振り返ってみると、大学に入ってから大学院を卒業するまでの6年間、ぼくは予備校で講師のバイトをしていました。メインは個別指導で、1対2〜3で数学を教えていました。相手は受験生で、最大の目標は「志望校に合格すること」。
合格点に達するかどうかが一番の課題なので、言ってしまえばパターンや解法の暗記でもいいから問題が解けさえすればいい。とはいえ、数学を学ぶからには、問題を解くときには頭を使って考えてほしい、脳みそを鍛えてほしいという思いが常々ありました。
それはただのぼくのエゴなのかもしれませんが、なんとか質問を多くしながら生徒に考えてもらい、意見を引き出す努力をしていました。でもやはり、”教える”という意識が強かったように思います。

算数を教える日々

そして初任校は特別支援学校で、担当の1つとして数学の授業を持っていました。数学という教科名をしてはいますが、内容は算数。算数を教えるのはとても難しく、反省の多い日々でした。その時の話です。

教えはじめてしばらく経ったころから、悩みの多かった数学の授業が、すごく楽しくなってきました。予備校時代もとても楽しみながら授業をしていたのですが、それを上回ります。なぜそんなに楽しくなったのか。
それは、”みんなの意見をきく”ことを主体とした授業構成にしたからです。
授業なので、もちろん身につけてほしい考えや計算という目指す目標はあります。でもそこまでこちらがグイグイと引っ張っていくのではなく、みんなの言葉を引き出しながら、こちらはその意見をもとに目標に向かって行くというスタンスです。これが楽しい。予想外の意見や、こちらの予想を超える考えがバンバン飛び出してくるからです。
みんなの意見に驚きながら、それを拾い、拡げながら授業を展開していくのがほんとうに楽しい。

”引き出す”ことが大切

考えて、頭を働かせていないと自分の意見を持つことはできません。みんなからいろんな意見を聞き出すことができているということは、しっかりと考えている、頭を働かせている証拠だと思います。
予備校時代からの「学ぶからには頭を働かせて考えてほしい」という思いが、いくらかは達成できていたのではないか、と感じます。こうしてみんなの意見・考えを聞き、ぼく自身がすごく楽しみながら授業ができているので、それは生徒みんなにも伝わっているはず。以前より意見が活発に飛び出すようになってきていると感じます。

”引き出す”。そのためにはやはり準備が大切。
どこまで材料を与えるのかはとても難しい。材料を与えなさすぎると、生徒はどうしていいかわからなくなりますし、玉に材料を与えすぎたり、質問しすぎると誘導尋問みたいになってしまいかねません。その微妙なライン攻めるのがまた楽しかったりするのですが。
考えを引き出す授業構成も大切ですが、自分の意見を言いやすい雰囲気づくりもとても大切になってきます。
授業中のクラスの”空気”には細心の注意を払いながら、意見を言いやすい良い雰囲気を保つこともとても難しいものです。「考えを促す授業構成」と「意見の言いやすい雰囲気づくり」は、今一度取り上げていきたい目標です。

おわりに

”教えている”という意識は、少し間違えると「教えてやっている」やら「これだけ言ってなぜわからないんだ」という気持ちを誘発してしまう危険性があります。もう一度本の内容を引用させてもらいますと、

「こんなことがわからないのか!」ではありません。
「こいつ、人の話を聞いていないんじゃないか!」ではありません。
伝わらないのは、教える側が悪いのです。

まさにそのとおりなのでしょう。これからもずっと”教える”よりも”引き出す”ことに重点を置きながら、生徒みんなと楽しみながら進んでいければなとおもいます。

では、お読みいただきありがとうございました。

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教え手は”今の自分”を基準にしてはいけない

どんな職業・立場であれ、「これはこうするんだよ」であったり、「こういうことだよ」と伝えたり教えたりすることってあると思います。で、そんなときに「言うたのになんでわからへんねん」「さっきのん全然伝わってなかったんかいな」って感じたことってありませんか?
この状況の原因は、一概には教え手/学び手、あるいは伝え手/受け手のどちらが悪いとは言い切れません。教え手は、ちゃんと説明したのにわかってくれないと、学び手を責めがちになったりしますが、ちょっと立ち止まって考えてみて欲しいと思うんです。

”今の自分”を基準に物を言っていないか?

ぼくは、基本的には数学の教え手です。数学については、今までいっぱい学んできましたし、これからもたくさん学んでいくことでしょう。学ぶことは、自分お知識や経験が増えていくため、良いことではありますが、その反面、学べば学ぶほど”学び始め”からは遠ざかってしまいます。
教え手であるぼくが数学を教えるのは、”学び始め”である学び手のみんな。
この時点では、教え手と学び手の知識や理解、経験が違うので、言わば距離が離れた状態。もしぼくが今の自分を基準にうんじゃかんじゃ話したとしても、学び始めの学び手にはほとんど伝わらないという、不測の事態に陥ってしまうでしょう。
当たり前のことですが、当たり前すぎて忘れ去られていることでもあります。人は、当たり前なことほど意識外に放り出してしまうものなので。

距離を縮めることを、常に意識する

教え手と学び手の距離を縮めようとする意識は、常に持っておきたいものです。もちろん教え手が。学び手に「教え手に合わせて話をしなさい。教え手と同じレベルで理解をしなさい」と言っても、到底無理なので。
学び手には、知識の量・理解の度合いには限界があり、教え手との距離を縮めたくても現状どうすることもできません。教え手が学び手に歩み寄り、距離を縮める。そのためには、学び手側の今の知識量・理解の度合いをイメージする必要があります。そのイメージの元となるのは、過去の学び始めの頃の自分であったり、他の違う学び手に教えた時の経験であったりします。
また、質問の内容は、丁寧に確認することも求められます。教え手と学び手は知識や理解に差があるわけですから、学びてからの質問の内容を教え手が間違って把握する、なんてことはよくあること。それでは距離は縮まりようがない。
距離を縮めるために、学び手の今の状況をできるだけつかみ、イメージする。そういったことが大切であるように感じます。

おわりに

「なんだか伝わらないなぁ」と感じたら、学び手との距離が離れていないか?に目をむけるのもいいのではないでしょうか。伝わらない原因は1つではないにしろ、距離が離れてしまっているというのは大きな原因の1つになり得ます。

今回書かせてもらったことは、職業柄、教え手になることがほとんどの自分が意識したいことです。教え手という立場ばかりにいてしまうと、忘れてしまいがちなことなので。人は、当たり前なことほど意識外に放り出してしまうものです。この当たり前のことを意識外に放り出してしまわないためにも、こうして思い返し、考えることは有効かなとおもいます。

理解しちゃっていても、まだ理解に至らずうんうんと頭を悩ませる状態をイメージすることはできるはず。

では、お読みいただきありがとうございました。

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「うちあわせCast」を聞いて考えた、「学校」についてのこと

うちあわせCastを聞きました。

「自分の道具を作る」について。
その中で触れられていたのは、本を読んで、それを盲信的に信じたり、それが唯一の正解やと捉えて、自分のやり方があっているのかどうか確かめたい人がおるけど、それってどうなんだろうか、という話が印象的でした。
それに続いて、日本の教育について言及されていました。実際に教育現場にいる身としては、色々と考えさせられますし、自分なりの意見なんかも持ち合わせているわけで。
今日はそれについて書きます。

学校教育は、正解するか否か、に重きを置かれているため、正解かどうか、を気にする人に育ててしまう。
だから、自分で作る、という発想にならず、正解を求めてしまう。

そのような意図のことが話されていたと思います。
それに対してぼくは、このように思いました。

  • 学校で教わるのは、「基本のき」みたいなこと。考えるにしても、基礎的なことを知らないと考えようがない。作りようがない。その部分を教える役割を担うのが、学校ではないかな、と。
    • いきなり「自分の道具を自分で作ってみよう」「自分なりに考えてみよう」と言われても、それがたとえ答えが1つに定まらないことであって、自由に考えていいとしても、やはり考えるための前提となる知識や技能がなければ、難しい。
  • 「基本のき」を学ぶ際には、正解かどうかがやはり大事。
    • その基本を土台とすることになるので。

また、普段学校で(ぼくが赴任している学校は、学力的にはかなりしんどい、いわゆる困難校といわれるところ)教えていて、よく感じること。

  • 教えていて感じるのは、「じゃあ考えてみよう!」と威勢よく言ったとしても、そもそも考えるための知識や技能がないと考えることができない、ということ。
    • 正負の数の計算もおぼつかない状態なのに、因数分解にて「足して−1、かけて−6になる2つの数は?」と聞いても、なかなか厳しいものがあるように。

なので、結論的にこう感じました。

  • 「考える」をするための前提知識を教える場。
  • 「作る」をするための基本技術を伝える場。
  • それが、学校教育で果たすべきことではないかな、と。
  • 受験が第一に考えられがちやけど、ほんまはそれを第一義にしてしまうのは、やっぱりよろしくない。それこそ、正解を求めてしまうことにつながりかねない。

この考えは、赴任している学校によって大きく違ってくるように思います。小中高でももちろん違ってくるという前提のもとでの、結論です。

とはいえ、学校で何かを教えるとなると、確かに「正解」を求めるような場面設定がほとんどになってしまっているのも事実です。
生きていて、正解が明確に決まることなんてほとんどないのに。
その点で、学校という場所は、かなり特殊な場所である、と言えそうです。
ということもあり、

  • 学校という現場で「これがいい」とされていることは、積極的に壊していったらいいのではないか。

という思いが強くなりました。

  • 学校という場におると、そこでのことが当たり前になってしまう。当たり前になると、疑いの目を向けなくなり、社会においても同じ目線で見てしまう。
  • でもやはり、学校というところは特殊である。
  • なら、学校という現場で是と思われていることは、往々にして社会においては非であるかもしれない。
  • そういう認識でいることや、学校という場で盲目的に是と捉えられていることは、積極的に崩していくべきではないか、と。
  • 当たり前と思われていることほど、「ほんとうにそうなのか?」を問うていくべきではないか。
  • だからぼくは、学校において、できるだけ「こうすべき」と言われていることに対して、別のことをやっていきたいな、当たり前になっていることに対して、「ほんとうににそうか?」を問うていきたい。

このあたりが、ポッドキャストを聞いて考えたことをその日のうちにだーっと書き出しておいたものになります。
読み返しながらこのブログを書いているわけですが、聞いている時は、もっといろいろなことが頭の中を駆け巡ったように思います。
とても思考を刺激してもらいましたし、ポッドキャストのお二人の話がとてもおもしろい(毎回とてもおもしろい)ので、興味ありましたらお聞きになることをオススメします。

では、お読みいただきありがとうございました。

「黒板の前に立ち全体に向かって講義する形」ではない授業を試す

ぼくは、高校で数学を教えています。
赴任している学校が「学びなおし」の学校でして。
小中学校で学んだことを1年間でどう復習し、高校数学につなげるか〜新しい授業の形について考える①〜でも触れましたが、学びなおしということで、勉強を苦手としてきた生徒がけっこういます。そこで、毎日30分間、小中学校で学んだことを復習するという授業形態(モジュール授業)をとっており、国数英に関しては毎日授業があります。その授業も他と同様、基本的には前で教員が解説する講義形式で授業しているのですが、やり始めたときから全く違ったものにしたい、と考えていました。

数学がすごく苦手な生徒もおり、これまでの経験から、学ぶ意欲が失われているのでは?と感じる生徒もいます。
モジュール授業では、2クラスを習熟度によって3つのグループに分けており、ぼくはその中で一番数学が苦手な生徒が集まるのクラスを担当しています。
小学校2、3年生あたりの内容でも正確に解くことができなかったり、小数の計算になるとクラスの半分は正解に至ることができず、分数ではさらに3分の2は足し算・引き算ができない、というような感じです。
その生徒たちに、集団講義という形、前で教師が生徒とやりとりしながら解説していく形で、小中の内容を1年間で復習するわけです。が、どう考えてもそれでは生徒が計算を身に付けることができるようには思えないわけです。
そこまで数学が苦手であれば、おそらくは小学校の頃から何らかのつまづきをしているはずです。小学校の授業形態は、基本的には集団抗議の形になるでしょう。もちろん、生徒同士のやりとりや1つの単元にかける時間数は、モジュール授業よりも多いはずです。そこで、何らかのつまづきがあった生徒が、今、モジュール授業を受けている、と考えていいと思います。
そんな生徒相手に、相変わらず集団講義の形式で授業をするのは、しかも小中学校の時代よりも短い時間で多くの内容をこなしていくのは、どう考えても生徒の力を伸ばす結果にはならない、と思うわけです。

  • 小中学校の頃よりも短い時間で進んでいかないといけない。
  • そのため、小中学校でやっている授業よりも一つ一つの内容をじっくりやっていくことができない。
  • モジュール授業の相手は、小中の授業を受けても十分に理解できず、どこかでつまずき、取り残されてしまった生徒達。
  • であるにもかかわらず、小中学校の授業と同じように、教師一人が、生徒多勢に黒板を用いて授業する形態をとっている。

そんな中で数学の力を、基礎的な部分を伸ばすことができる生徒は、ほんのほんの一握りでしょう。もしかしたら、一人もいないかも。
そう感じていたため、集団講義の形式での授業をするのはもうやめにしないか、と常々思っていました。

今年度の授業があとわずかとなり、試しに教師が黒板の前に立ち全体に向かって講義する形ではない授業を試すことにしました。定期考査対策のプリントを配り、その解説動画を見て、自分のペースで勉強を進める形を。
わからない部分があれば、これまでに書いたノートを見返し、見ながら解いてみる。それでもわからなければ、プリント上に印刷されているQRコードをスマホで読み取り、動画を見て学ぶ。それでもわからないところは、教員が個別に対応する。そんな授業です。
1回目の授業は、物珍しさもあってかとても手応えのあるものでした。
いつもは私語が目立つ生徒や、わからないからとすぐに顔を伏せてしまう生徒が、熱心に動画を見ながらプリントに取り組んでいたんです。
みんな見慣れているので、操作もお手の物。わからないところは一時停止し、ときには巻き戻してもう一度見返したりしながら集中してくれていました。
「このほうがいい」という生徒の声も聞け、とても収穫のある授業となりました。
もちろん、問題点はたくさんあります。
関係のない動画を見るかもしれないですし、スマホが使えてしまうとメールやSNSなどに気を取られてしまう恐れがある、教員1人が個別に対応できる人数には限界がある、などなど。
とはいえ、それらの問題点を解消する策はありそうですし、効果的にこの授業の形を取り入れることはできる、という感触を得ることができました。かなり大きい収穫だと感じています。

次年度は、講義形式と動画を用いての授業を、どう効果的に織り交ぜていくか、が焦点になってきそうです。

では、お読みいただきありがとうございました。

「授業は難しい。だから楽しい」とはなかなか言えないけど、うまくいってない部分を打開して楽しめるようになりたい

授業で難しい、と感じるのは、「どうすれば数学を学ぶ気になってくれるのか?」というところ。これがほんまに難しい。
ぼくの赴任している高校の生徒は、勉強することに苦手意識というか、高校に入るまでの経験で勉強することに対してポジティブな感情よりもネガティブな感情を抱きがち。
そうならざるを得ないこともあるよな、と感じる。
特に数学のような積み上げていく教科は、小学校あたりでつまずき、そのつまずきから先「わからない」の経験が積み重なっていってしまうことがある。
そうなると、なかなか数学を学ぶことに対してポジティブな感情を抱きにくい。
聞いてもわからん授業を受け続けるのは、かなりの苦痛やから。
そういう生徒もいる中で、どうやったら「ちょっとやってみよう」と実際に取り組んでもらえるのか、「これはどうなるかな?」と考えてもらえるのか。
加えて、ぼくの赴任校は単位制の高校なので、「単位さえ取れたらいい」と考える生徒も多い。
中には、進級できる分の単位があればいいから、数学の単位は取れなくても他を取ればいいし、と考える生徒もいる。
そんな生徒たちに授業に、数学に取り組んでもらうには、どうすればいいのか。
いかにして単位目的ではなく、学んでもらえばいいのか。
とても、難しい。

と、ここまで書いてて、「何を弱音ばっかり言うてるんやい」「ぐちぐちと不満を漏らしてるんやい」と言う気になってきた。
何かしら、打開策はないものか。

今、顕著に現れてるのは、同じ内容を扱い、同じように授業を展開していても、うまくいっているクラスと全然うまくいってないクラスがある、ということ。
授業は、ぼく一人でやるものではない。授業を受けている生徒と一緒に作るもの。
みんなの協力がなければ、まともに授業をおこなうことなんてできない。
一人一人、日によって調子にばらつきがあるので、みんながみんな毎回ちゃんと授業をうけることができなあかんとは思ってない。
けど、日によってばらつきがあったとしても、「よし、やろう!」と思ってくれている生徒が一定数いると、クラス全体が自ずと取り組む雰囲気が出来上がる。
取り組む雰囲気ができているクラスは、多少の私語はあれど授業の妨害になるようなことをする生徒も少ないので、授業をしやすいし、生徒もよくやってくれるので、定期考査の平均点を見ても明らかに高い。
じゃあ、いかにそのようなクラスの雰囲気に持っていけばいいのか、という話になってくる。
クラスが違えば同じように授業をするとうまくいかない。であれば、何かしら変化を加えないと。
同じ題材を使うからといって、同じ授業にしないといけないわけじゃない。
クラス全体の授業に取り組む雰囲気づくりがうまくいきそうなやり方を考えればいいのか。
クラスによって、やり方を変えて雰囲気を引き出せばいいのか。
うまくいっていないクラスに関しては、大胆に変えていっていいかも。
うん、打開策になるかはわからないけど、やってみようと、試していこうと思うことは定まった。
もっと生徒に目を向け、分析して、取り組む雰囲気を作っていけたら。

と、こんな風に、授業について考える時間をもっととることができればなぁと感じる。
考え、試し、いい方法を探っていきたい。

では、お読みいただきありがとうございました。