「教える」よりも「引き出す」に重点を置く

ぼくの好きな本に、「プロ研修講師の教える技術」というのがあります。
なぜこの本を購入するに至ったかと言うと、”はじめに”でこんなことが書かれていたからです。

「こちらが、詳しくていねいに話す」のではなく、「こちらの説明はポイントだけで、答えは相手に見つけてもらう」

プロ研修講師の教える技術

寺沢 俊哉 ディスカヴァー・トゥエンティワン 2011-10-16

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この考えにすごく共感し、思わず購入したわけです。”教える”よりも、答えを”引き出す”ことで授業を組み立てていき、話を進めていく。初任校でみんなの前に立って教えはじめてしばらく経ったころから、その重要性に気づき、意識し始め、そこから数ヶ月が経った頃、本書と出会いました。

予備校での日々

少し過去を振り返ってみると、大学に入ってから大学院を卒業するまでの6年間、ぼくは予備校で講師のバイトをしていました。メインは個別指導で、1対2〜3で数学を教えていました。相手は受験生で、最大の目標は「志望校に合格すること」。
合格点に達するかどうかが一番の課題なので、言ってしまえばパターンや解法の暗記でもいいから問題が解けさえすればいい。とはいえ、数学を学ぶからには、問題を解くときには頭を使って考えてほしい、脳みそを鍛えてほしいという思いが常々ありました。
それはただのぼくのエゴなのかもしれませんが、なんとか質問を多くしながら生徒に考えてもらい、意見を引き出す努力をしていました。でもやはり、”教える”という意識が強かったように思います。

算数を教える日々

そして初任校は特別支援学校で、担当の1つとして数学の授業を持っていました。数学という教科名をしてはいますが、内容は算数。算数を教えるのはとても難しく、反省の多い日々でした。その時の話です。

教えはじめてしばらく経ったころから、悩みの多かった数学の授業が、すごく楽しくなってきました。予備校時代もとても楽しみながら授業をしていたのですが、それを上回ります。なぜそんなに楽しくなったのか。
それは、”みんなの意見をきく”ことを主体とした授業構成にしたからです。
授業なので、もちろん身につけてほしい考えや計算という目指す目標はあります。でもそこまでこちらがグイグイと引っ張っていくのではなく、みんなの言葉を引き出しながら、こちらはその意見をもとに目標に向かって行くというスタンスです。これが楽しい。予想外の意見や、こちらの予想を超える考えがバンバン飛び出してくるからです。
みんなの意見に驚きながら、それを拾い、拡げながら授業を展開していくのがほんとうに楽しい。

”引き出す”ことが大切

考えて、頭を働かせていないと自分の意見を持つことはできません。みんなからいろんな意見を聞き出すことができているということは、しっかりと考えている、頭を働かせている証拠だと思います。
予備校時代からの「学ぶからには頭を働かせて考えてほしい」という思いが、いくらかは達成できていたのではないか、と感じます。こうしてみんなの意見・考えを聞き、ぼく自身がすごく楽しみながら授業ができているので、それは生徒みんなにも伝わっているはず。以前より意見が活発に飛び出すようになってきていると感じます。

”引き出す”。そのためにはやはり準備が大切。
どこまで材料を与えるのかはとても難しい。材料を与えなさすぎると、生徒はどうしていいかわからなくなりますし、玉に材料を与えすぎたり、質問しすぎると誘導尋問みたいになってしまいかねません。その微妙なライン攻めるのがまた楽しかったりするのですが。
考えを引き出す授業構成も大切ですが、自分の意見を言いやすい雰囲気づくりもとても大切になってきます。
授業中のクラスの”空気”には細心の注意を払いながら、意見を言いやすい良い雰囲気を保つこともとても難しいものです。「考えを促す授業構成」と「意見の言いやすい雰囲気づくり」は、今一度取り上げていきたい目標です。

おわりに

”教えている”という意識は、少し間違えると「教えてやっている」やら「これだけ言ってなぜわからないんだ」という気持ちを誘発してしまう危険性があります。もう一度本の内容を引用させてもらいますと、

「こんなことがわからないのか!」ではありません。
「こいつ、人の話を聞いていないんじゃないか!」ではありません。
伝わらないのは、教える側が悪いのです。

まさにそのとおりなのでしょう。これからもずっと”教える”よりも”引き出す”ことに重点を置きながら、生徒みんなと楽しみながら進んでいければなとおもいます。

では、お読みいただきありがとうございました。

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おもしろいポッドキャストを紹介します

おもしろいポッドキャストを紹介します。

1つ1つが長いです。1時間以上あります。
哲学とか倫理とか、難しそうなことを話しているときもあります。
何より、本をじっくり読みたくさせられます。


読みたい本は尽きないもので、今も読まれることを待っている本が家の中に何冊もあります。
読みたい本がスタンバイしていると、どうしても次に次に読んでいきたい気持ちになり、1冊読み終えたらすぐ次の本に手を出し、となってしまいがちです。
でも、ここには厳しい現実が待ち構えています。
そうやって次々読んだとしても、読みたい本の増加のペースと、本を読了していけるペースは、どうあがいても読みたい本の増加ペースの方が早いという現実が。
そうなんです。
次々に本を読んでいったとしても、読みたい本はそれ以上のペースで増えていきます。
これは、抗いようのない事実。

どうせ、読みたい本、積読は増える一方なのははじめから決まった事実なんだから、次々読んでみたい本が積み上がっていくのを防ごう、なんて、あきらめちゃってもいいようなものです。
でも、なぜなんでしょう。そう簡単に、あきらめられない何かが、そこにはあります。
「ブックカタリスト」は、その「あきらめられない何か」を突き崩してくれる力があるように感じます。
次々読んでも読みたい本はどうせ増えていくのだから、それはもう仕方ない。
読むペースは落ちるとしても、1冊1冊をじっくり読むのもいいもんだ、読んでみたい本が積み上がってもいいじゃないか、と思えてくる。
もっと、1冊1冊をじっくり、その本について人に語ることができるまでに読み込みたいなぁと。
だって、そうやって本を読み込んでいるお二方のブックカタリストで繰り広げられる話は、すこぶる面白いのですから。

せめて、読んだ本についてブログに書けるほどにはしっかり読みたい。
今は、読めば次の本、読めば次の本と、次々に本を読んでいっており、じっくりは読めてない。
せめて、もう少しは、語るまではいかなくとも、書けるまでは。
書くよりも語る方が何倍も深く読み込まないといけないはずなので、読んだ本について語ることができるところまではもっていけないかもしれませんが、次に次にと読むよりも絶対にいい。


おもしろいポッドキャストを紹介します。

1つ1つが長いです。1時間以上あります。おもしろい話を長い時間聞けるなんて最高です。
哲学とか倫理とか、難しそうなことを話しているときもあります。それを、お二人のやりとりの中で深掘りしたり、質問から話が展開したりで、紐解かれていく過程が、聞いているこちら側を理解へと導いてくれます。
何より、本をじっくり読みたくさせられます。それこそが、このポッドキャストのおもしろい証です。

ぜひぜひ。

「そういうもの」のうちのひとつについて

長いこと、それこそ何年も何十年もずっと好きなことって、誰しもそんなに多くはないと思います。
時期ごとに熱中したものはあれど、どこかで飽きるというか、熱が冷めるもんです。
でも、中には、何年も何十年もずーっと好きでいられることがあったりします。
ずっと好きなことに出会うと、それは生活にしみわたり、それにふれるために時間をつくったり、日々の活力になったり。
それなしの人生は、ちょっとイメージしがたいくらいになります。
そういうものに出会うことができるのは、幸せなんちゃうかなぁ。
そんな風に思います。
ぼくにとって数学や本を読むことが「そういうもの」にあたります。
今回は数学について、ちょっと書きたいと思います。


いつから数学が好きなのか、と考えてみると、小学校のころにさかのぼります。

先生:じゃあ、算数ドリルの27ページを開いて、そのページの問題を解きましょう。
解けた人は先生に持ってきてねー。
いつものように、はやく全問正解した5人には、先生の代わりに「マルつけ先生」をやってもらいますからね。

ぼく:(よしゃ!今日もはやく問題解いて、マルつけ先生しよう!)

ぼくは一生懸命に問題を解き、「マルつけ先生」の役をゲットし、はりきって友だちのドリルのマルつけをしていました。
そろばんを習っていたこともあってか、みんなよりも計算をすばやくおこなうことができていました。
計算問題がササッと「できる」ことがうれしく、「マルつけ先生」になれるのが楽しかった小学校のころ。
算数が、少し好きでした。
小学校でのこの経験は、ぼくの中の大切な思い出の一つとなっています。
そして、そこからちょくちょく、数学はぼくに、強烈に印象に残る出来事を与えてくれます。

中学生のころ。
週に3日ほど塾に通っていたおかげもあってか、数学、理科、英語がまずまず得意でした。
ある日の塾での出来事を、すごく鮮明に覚えています。

先生:ノートに5cmの長さの線分をかきましょう。
みんなかけた?
じゃあここで問題です。
その線分から、2cmの距離にある点がえがく図形をかいてみましょう。

ぼく:まず線分の両側に同じ長さの線分を平行にかいて。。。
・・・
先生:おぉ、すごいな。これ、正解です。みんな、ちょっとこれ見てみて。
先生、これまで塾で教えてきたけど、正確に作図できてたのはキミがはじめてやわ。すごいすごい。

今考えれば、先生の「キミがはじめて」という言葉は、ほんとうかどうか実際のところはわかりません。
でも、ぼくは、自分で考えて、定規とコンパスを使って図をかき、それが正解であったことがむちゃくちゃうれしかった。
しかも先生に「キミがはじめて」と言われたことも、すごく誇らしかった。
考え、自分の答えを出し、それを強烈にほめてもらえた経験は、おそらくずーっと忘れないことと思います。

高校に進学し、数学がとたんに難しく感じるようになりました。
定期テストの前だけ必至こいて勉強し、なんとか赤点をまぬがれるように乗り切る。
そんな風にして、いつしか高校3年生。
大学進学のため、これまでの人生で最も勉強に励む時期に入ります。
理系クラスに進学したものの、中学まで好きだった数学は、難しくてなかなか身につかず、好きという風に感じなくなっていました。
そのころ好きだったのは、化学と物理だったでしょうか。
中学までは、数学を、問題の解き方を暗記することで対応していました。
それでなんとかなっていたんです。
けれども、高校では学ぶ内容がすごく多くなり、解き方の暗記では、自分の中に吸収しきれなくなってしまいました。
これが、数学から気持ちがはなれた原因だと思います。
でも、いくつかの出来事によって、またぼくは数学にグググッと惹きつけられていきます。
その中でも特に印象的なのは、高校3年になってからの、予備校での授業でした。

ぼくが教わった先生は、

  • 解き方の暗記ではなく、「なぜ?」を考えること。

について、熱く伝えてくれました。

  • なぜそう考えるのか?なぜそう進むのか?なぜそう扱っていくのか?
  • 数学は、その「なぜ?」に必ず答えてくれる。
  • やみくもに問題を解くのではない。
  • やみくもに式変形するのではない。
  • 条件と求めるものを明確にし、一歩一歩求めるものに向かって進んでいく。

解き方を暗記する数学から、考えて進む数学へ、180°転換した瞬間でした。
そして、その先生が教えてくれたことは、今のぼくの中に、深く深く根付いています。

予備校の先生の教えのもと、無事大学に合格できたわけですが、大学に入ってすぐに打ちのめされます。
代数学、線形代数、微分・積分学、幾何学。。。
どれもが難しく、いまひとつわからない。
それでもなんとか単位をとりつつ、3回生からはゼミがはじまりました。
あえて、ぼくのいる学部で一番厳しい先生のゼミに入り、必至こいて勉強し始めました。
ゼミの形式は、教科書を理解し、ゼミにて90分間先生に対して、何も見ずに理解した内容を解説する、というもの。
内容を理解し、頭に叩き込んでゼミにのぞまなければいけません。
少しでも理解が不十分であれば、解説の際にすぐに先生に見抜かれてしまいます。
苦労しながらも、同じゼミの友だちと協力し合いながら、なんとか教科書を読み進めていました。
ある日、勉強していて、どうしてもわからない部分にぶつかりました。
いくら考えてもわからない。
しかも、たった3行の記述について、どうしても理解することができないんです。
考えても考えてもしっくりこない。意味がとれない。後の内容につながっていかない。
その部分について、ずーっと考えました。
先生に質問することもできたのですが、そうしませんでした。
ある程度自分で考えると、躍起になって、どうにかこの部分を自分の力で理解したい、という気持ちになります。
だから、すっと考えました。
文字通り三日三晩考えました。
そしてその瞬間が訪れました。
「なるほど!そういうことか!」
この瞬間。すべてがつながる瞬間。理解できた!と確信する瞬間です。

そんなこんなで、今もまだ数学をちまちまと学んでいます。
大学生の時のこの体験、三日三晩考え、自分で理解できた体験がなかったら、もしかしたら今はもう数学を学び続けていなかったかもしれません。
それほどに強烈な体験でした。


長いこと、それこそ何年も何十年もずっと好きなことって、誰しもそんなに多くはないと思います。
でも、中には、何年も何十年もずーっと好きでいられることがあったりします。
それなしの人生は、ちょっとイメージしがたいくらいの。
そういうものに出会うことができるのは、幸せなことだと思います。
ぼくにとって数学は、「そういうもの」です。
だから、今もまだ数学を学び続けていますし、そんな数学の魅力を伝えたいと思っています。
ぼくが数学について語り、伝えていくことで、ちょっとでも数学が好きになったり、興味を持ってもらえるように。
究極は、ほかの誰かにとっても数学が「そういうもの」になってくれるように。
ずーっとそこを目指して、生きていきたいものです。

では、お読みいただきありがとうございました。

抽象化の先に待っているものが感じられるTED動画

小学校で学ぶ算数と、中学校以降に学ぶ数学。このふたつには大きな違いがあります。
よく「算数は普段使うから必要やけど、数学を普段使うことはない。やから必要ない」って意見を聞いたりしますが、「必要ない」という部分以外はまさにそのとおりだと思います。「算数は普段使うから必要やけど、数学を普段使うことはない」。だって、扱う対象が違うんですもの。

算数で扱うのは、”具体的”です。具体的な数を扱い、数に関する知識を学びながら、四則演算を習熟していきます。に対して数学で扱う対象は”抽象的”なもの。数学では「文字式」を筆頭に、普段の生活ではなかなか出てこない、抽象化された世界へと踏み込んで行きます。
だから「算数は普段使うから必要やけど、数学を普段使うことはない」んです。ただ、必要ないことは決してないですが。

抽象化してなんなのさ

じゃあ、抽象化していったいなんだというのでしょうか。

中学校に入り、いきなり度肝を抜かれるのが、文字式だと思います。
それまでは500とか1.2とか具体的な数字を用いていたのに、なんだかxとかyとかが登場してきて、それで式を表現したりします。抽象化された世界への第一歩を踏み出すわけです。

算数の有名な問題で「鶴亀算」というのがあります。鶴と亀の数とその足の総数からそれぞれ何匹いるのかを求める問題です。

算数の世界ではあくまでも具体的な数を扱うので、まずは「すべて鶴であるとする」という仮定から始めての、総数を求めて行きます。それはそれで大切な考え方を学ぶことができるのですが、文字式を獲得したあとであれば、”方程式”という強力な武器が使えるようになります。こっちの方は鶴亀算のみならず、いろんな問題に応用可能です。

具体的な世界を離れる、ということは、応用範囲を広めることにつながります。

「ロバートラングが全く新しい時代の折り紙を折る」

抽象化することの恩恵がすごく感じられる動画が、TEDにあります。それが「ロバートラングが全く新しい時代の折り紙を折る」。

とにもかくにも動画を見て欲しいなと思います。「折り紙もすごいとこまできたもんだ」と感心すること請け合いです。

ロバート・ラングが全く新しい時代の折り紙を折る | Video on TED.com

今回注目して欲しいのは、折り方をコンピュータに計算してもらうことができるようになるまでの話の部分です。
そこでは、いろんな折り方のすべてに共通する要素を抜き出してしまうと、たった4つの法則にたどり着くことができる、ということが述べられています。
折り紙には古くから培われてきた、本当に様々な折り方ってのが存在します。これまでは一つ一つ折り方を編み出してきたわけですが、すべての折り方に共通する法則を抜き出すことで、折り紙の世界はとたんに広がります。
簡単な骨組みを考えることで折り方をコンピュータにはじき出してもらうことができるようになったんですから。
具体物の一つ一つをから構成されていた折り紙の世界を、すべての折り方に共通している要素、”4つの法則”を抜き出すことで抽象化し、単純な要素のみで表現することで、しまいにはコンピュータに計算してもらえるようにしちゃったわけです。
コンピュータの技術がどんどん高まっている現在、こんな事例はこれからも出てくるのではないかなと思います。

おわりに

というわけで、TED動画「ロバートラングが全く新しい時代の折り紙を折る」を見ることで、抽象化の恩恵を感じ取れるのではないかなと思います。
抽象化するってのはとてもすごいことなんですけれども、抽象化されたら具体を離れるということで、目に見える対象ではなくなっちゃうんですよね。やっぱり普段の生活で扱うものは具体的なものばかりなんで、対象が抽象的なものである「数学」という学問は「別になくても困らないし、必要ないでしょ」って結論に至っちゃう人がとても多いんでしょう。
でも、だからこそおもしろい面もあるわけで。そんなのをこれからも紹介できればなと思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

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概念の拡張と日常への適用

数学では、新しく世界を広げるために、「概念を拡張する」ことがある。

拡張するとは、適用範囲を拡げること

例えば、「数」。ぼくたちが一番初めに学ぶのが、1、2、3、4などの「自然数」とよばれるもの。この自然数に対し、「+」「−」「×」「÷」の計算ー「四則演算」ーが定義されていくこととなる。
すると、「1÷3」や「2-5」など、計算の結果が自然数ではなくなるものが出てくる。出てきた数を認め、はじめは自然数に対して定めた「+」「−」「×」「÷」を、新たに出てきた自然数ではない数に当てはめてもいいかを確かめる。
そうして、これらの演算を、小数や負の数などの自然数以外へと、拡張していく。さらには、有理数、無理数、虚数へと進んでいき、どんどん演算の及ぶ範囲を拡げていく。

こんな風に、概念を拡張していくことで、考え得る世界を拡げていくのが、数学の大きな目的の一つと言える。

”知識”自体が大切なのではない

こんなことをよく聞く。「日常で出てくるのは、たすひくかけるわるくらい。それさえできればいいので、必要なのは算数まで」。

確かに、数学で学ぶような、「三角関数」であったり「微分・積分」であったりは、日常ではまず出てこない。はっきり言って必要ない。でもそれはあくまでも、「知識としては」という前提がつく。

「知識としては必要ない」のであって、「学ぶ必要がない」わけではない。ここを取り違えてはいけない。

数学を学ぶのは、数学的知識を蓄えることが目的ではなく、数学で培うことのできるものの見方・考え方を、日常へと拡張することが目的と言える。

拡張して、適用範囲を拡げることが目的

数学では、論理的に考えることや、記号を使ってシンプルにとらえること、グラフや図を用いて、視覚的にとらえること、問題を解決する際のアプローチの方法、、、などなどを学ぶことができる。
これらは「知識」ではなく、「見方や考え方」であり、覚えておくものではなく、身につけるもの。
この身につけたことを、日常へと適用範囲を拡げること。数学のいないところにも、概念を拡張すること。それこそが、数学を学ぶ目的と言える。

拡張の経験が日常にも活かされる

数学では、新しく世界を広げるために、「概念を拡張する」ことがある。頻繁にある。
ということは、数学に触れることで、概念の拡張を数多く経験できる、ということになる。この経験が、数学の身につけたものを日常生活へと拡張することにも、役立っている、と思う。

意識的かどうかは別として。
数学で培った力が拡張されていることを、自分自身意識できているのかは別として。

気づかない間にでも、数学のものの見方、考え方が、日常へと拡張されているのであれば、やっぱり数学を「学ぶ必要がない」わけはない。

おわりに

将来的に使わないから、というのは、学ばなくていい理由にはならない。教科によって差こそあれ、何かを「学ぶ」ということは、知識を蓄えることのみならず、その教科で養える力を習得するためにあることだから。

ぼくは、歴史や漢文が大嫌いだった。「覚えるだけ」の教科だと勝手に決めつけ、覚えても将来役立たないではないか、と、自分に言い訳をして、なるべく避けようとしていた。でも、今では思う。歴史や漢文も、覚えるだけが目的ではないと。「学ぶ必要がない」わけはないと。もう少し真面目に取り組むべきだったな、という、少しの後悔だけがのこっている。

数学に対して、そんな後悔がのこる人が、一人でも少なくなればいいな、と思う。

では、お読みいただきありがとうございました。

何を書こうか考えた結果、やろうと決めて結局やめちゃったことについて書こうかな、と。

そんなん書いてるのんあんまし見たことないので、書いてみようかな、と。

やめちゃった1:ブログ毎日更新

ブログを積極的に更新すると決意し、宣言し、実際に半年ほどは毎日更新を続けることができた。
というか、そんなに続いてたなんて忘れてて、ブログを読み返して知った。半年も続けていたことにびっくり。
このエントリは実は、本日を以て – R-styleを読んで、書いた。とにかく、感謝を伝えたくて。

ブログを書き始めたきっかけは、もうあまりちゃんとは覚えていない。けどはっきり覚えているのは、先にブログを書いていた人たちがいた、ということ。ぼくはそれを毎日楽しみにして読み、いつしか自分も書きたいと思い、書くという一歩を踏み出すことができた、ということ。
そんなブログに、感謝感謝しかない。そんな魅力的なブログを書かれた方たちに、感謝感謝しかない。

この文章は、ほぼほぼ「R-style – Sharing is Power!」というブログに向けて、R-styleを書いている倉下さんに向けて書いた。実は。
で、その感謝を、行動で示していきたいなというか、何かできないものかと思い、毎日更新を決意した。
結局は毎日更新は途絶えてしまったけど、でもぼくにとって半年も続けることができたのは結構奇跡的なことで。

やめちゃった2:数検の勉強

数検1級合格を目指して勉強し始め、合格までをブログで定期的に追って行こう、と考えてたけど、2019年10月27日に報告を開始して2020年2月2日を最後にブログでの報告を中断、その後しばらくは勉強を続けていたけど、続かなくなった。
理由は、微分方程式の解法を勉強して問題を解けるようになったけど、そもそも微分方程式の公式はなぜ成り立つのか、定理や公式や解き方の背景を含めて理解したくなったから。そのために、微分積分学を学び直すことを始めたため。
何年かかってもいいから、やっぱり「解ける」だけに満足せず、理解した上で問題ができるようになりたくて。
微分積分学の勉強も楽しく、しばらく続けることができていた。けどそれもやがてやらなくなってしまい。
ただ、数学に関しては、今後もきっと何度でも何かしらを学ぶことにチャレンジしていくと思われるので、挫折したというよりかは今はいったん中断している、と言ったところ。

やめちゃった3:紙のノートによるバレットジャーナル

連用日記の手帳版を「連用バレットジャーナル」と名付け、紙のノートを手帳として使っていた。
ただ今はもう、紙のノートは使っていなくて。
iPadのApple純正メモ帳に移行したのち、今はObsidianを使っている。連用形式で。
それについてはまた書けたらな、と思う。

おわりに

なんとなく「やめちゃったことについて書こー」と思って書き始めたこのエントリやけど、ブログ毎日更新の経緯について書けてよかった。

では、お読みいただきありがとうございました。

知的生産その5「授業」〜一個人の、知的生産・タスク管理の技術15〜

授業」を組み立てるときにも、頭をはたらかせます。生徒にわかるかたちはどういうものを、どういう順序で、どういったように伝えたらいいか、を。
ただただ考えるわけではなく、段階によって少し考える方法や用いるものがかわってきます。

章ごとに

数学の教科書は、数学を伝える単位として、内容ごとに「章」や「節」に分かれています。新たな章に入るときに、その章全体のロードマップを思い描きます。もちろん、高校には定期考査というものがあるので、考査によってその「章」や「節」は分断されるのでそれも考慮に入れつつ、最終的な目標と、そこに至るまでの道筋を考えます。
ここで用いるのが、紙とペンiPadApple Pencilではなく、です。なぜかというと、この段階では、書くスペースの大きさの制約が考える妨げになってしまうから。
最低でもA4サイズ、理想はA3サイズの紙に、最終的な目標に至るためにはこういうことを押さえて置きたいというものを書き出していきます。配置に気をつけつつ、でもそこまで神経質にならないように。教科書の内容と照らし合わせつつ、道筋を描いていきます。
この段階では、アウトライナーを使うこともあります。どういった順序で進めていくかを考えるので、道筋としては直線的です。そこがアウトライナーとマッチすることもあるので、時に大きな紙を、時にアウトライナーを使って考えます。

毎回の準備

章ごとに流れを考えて置き、次に毎回の授業前には今回の授業では何をどのように伝えていくのか、を考えます。
この時にもA4サイズの紙をよく使います。毎回の授業を考える時には、基本的に考えた後は捨てしまっても差し支えはないので、裏紙に、今回の内容をどうやって伝えようか書きながら考えます。
そしてある程度まとまった後は、iPadとApple Pencilの登場です。というのも、板書計画は、配置や言葉をなんども修正しつつ完成に向かうことになるので、何回でも修正可能で、言葉の配置の修正に優れているiPadのノートアプリがうってつけです。加えて、そこに書いた板書計画の一部を黒板に投射して授業をす流、というスタイルを取っているので、その点においてもiPadで計画していた方がいいわけです。
そして、板書の補助になりそうな部分をスライド化して置きます。

授業では

授業では黒板にチョークで、重要な部分や押さえてほしいことを書いていくわけですが、書くのに時間を取られすぎるのもよくないかな、と思い、書き写してほしい問題文などはあらかじめスライドの中に盛り込んで置き、その内容を黒板に投射し、そこに書き足していくスタイルで授業をしています。
しっかり集中して話を聞いてほしいので、なるべく話す時間は短く、そこでの理解をノートに書いて置けるような進め方をイメージしています。

授業は、頭をはたらかせて、数学の内容を生徒にわかるかたちで提出する場になります。
まだまだまだまだ全然うまく授業できていないので、なんとか少しずつでも数学を伝えることをうまくなっていきたいなーと思うばかりです。

アドラー心理学は、「変化を促す、変化を後押しする心理学」〜アドラー心理学について③〜

アドラー心理学は、「変化を促す、変化を後押しする心理学」であるのではないか、と思う。

アドラー心理学の大きな特徴の一つが、原因論を唱えていること。
怒鳴るために怒りを持ち出すと考える。人は、突発的な怒りに駆られて怒鳴るのではなく、怒鳴るって目的が先にあり、そのために怒りを持ち出す、というとらえかた。
目的が先にあるなら、その目的を選択し直せば、これまでとは違うように歩める。
そう、そこがミソ。目的は、選択しなおせばいい。選択し直すことができる。
選択しなおせば、今までの自分とは違う存在になれる。

今までどういう選択をしてきたのか、は関係ない。過去を気にせず、「これから」に目を向ける。アドラー心理学は、そのための哲学であると理解している。
アドラー心理学は、変化をその人自身の手で起こせるように後押しする心理学。自分の力で歩む力添えをする考え方。
変化を促し、後押しすることができれば、教師冥利に尽きる。というか、ぼくは、そういう風に他者に、社会に、この世界に貢献したいなぁと漠然と思っている。
みんなの人生の中で、ぼくが関わることのできる時間は、ほんの一瞬。でも、その一瞬で、その後の人生に大きな”良い影響”を与えたい。変化や成長を後押ししたい。

アドラー心理学は、変化を望まない人にとっては手厳しく、変化を望む人にとっても手厳しい考えを提示する。
それは、人はその手厳しさを乗り越えることができる、その力があるという信頼に基く。
変わることは簡単ではない。けど、人は、変化する。変化する力を持っている。
ぼくも、それを信念に、なにができるか、どうできるか考えたい。

では、お読みいただきありがとうございました。

長期的な視点を常に持つ 〜アドラー心理学について①〜

アドラー心理学に出会ってから、アドラー心理学を実践することで、生徒たちに良い影響を与えることができないかと、常にアドラー心理学の教えを念頭に置くようになった。
いくつか理由はあるけれども、その中でも、けっこう中心的な部分について、ピックアップしていきたい。

まずは、アドラー心理学の視点は、長期的であるってことについて。

基本的に、叱ることと褒めることが教育には必要とされているけれども、アドラー心理学ではそれを否定する。褒めたり叱ったりすることの先には、相手をコントロールするっていう目的が隠れているから。
でも、本当に必要なのは、コントロールではない、と思う。コントロールってつまり、教師の都合のいいようにさせるってことやから。
そうではなく、相手の変化を後押ししたい。こちらがコントロールするのではなく、相手が変化するのを後押しする。

人は、変化には臆病である(臆病であると思う)ので、変化するのは簡単じゃないし、短期的な関わりではなかなか後押しができない。
褒めたり叱ったりするのは、あくまでも短期的。
そうではなく、時間がかかっても良いから、変化を後押ししていきたい。

必要なのはコントロールではなく、変化できるよう勇気づけていくこと。
最終的には、こちらの働きかけや後押しから脱し、自分で歩んでいけるようになってもらうことを目指す。
アドラー心理学には、そういう考えが根底にある。人は、力をもった存在である、という信頼とともに。

長期的な視点、人への信頼、コントロールすることへの疑問が、アドラー心理学はあるので、ぼくは強い共感を覚えるのだと思う。

では、お読みいただきありがとうございました。

これからは、積極的にブログを書くつもりでいます。ブログには感謝感謝です。

3日前から、ブログの更新を再開している。
1つ1つのエントリは、短い。サクッと書いて、えいやっと投稿してるので、こんなんでいいのかなぁ?という気持ちが、ないわけじゃない。
でも、書かないよりも書いた方がいいやろうってのを盾に、サクッと書いている。
毎日なにかしら書くことはある。考えてることとか、本読んで感じたこととか、誰かと話してて気づいたこととか、なんとか、かんとか。
そういうのんを、今までは全然書いてこなかった。
ちゃんとまとまってから書こうと思うあまり、ブログを更新できてなかった。
更新できてないと、ブログを書くための時間をとることも疎かになり、よけい更新できず、、、だった。

書くことで下がるハードル

ちょっと毎日更新をしていきたいな、と考え、試しにえいやっと、サクッと書いたものを投稿してみた。
一度更新するだけで、更新に対するハードルはかんなり下がり、結果、今のところ毎日更新できてる。まだ4日やけど。
でも、更新へのハードルを下げることができたのは、だいぶでかい、と思う。そう思いたい。
毎日更新するなんて、ブログを始めて書き慣れてきたころ以来やけれども、ちょっとまた続けていきたいと思う。
日頃考えてることについてや、読んでいる本から感じたことや、他の人の話から思ったことなんかを。
些細なことでもいい。
時間がない時もあるやろうけれども、そんなときでもその日書けることを書いていきたい。

書く、と決意すること

些細なことでもいいってルールにすると、書けることは驚くほど増える。
本については、読み終えてから書く必要はない。その日読んだ部分について書いてもいい。
考えがまとまってなくても、ブログに書きながら考えてもいい。結論が出なくてもいい。
感じたこと、思ったこと、考えたことを、そっくりそのまま提出してしまったっていい。
思考っていうのは、 勝手に広がっていっている。
「なにか書くことあれば書こう」では、その広がる思考から書く内容をうまく捕まえられない。
「なにか書く!」と決め、書くことを決定事項としておけば、あれについても書ける、これについても書ける、というように、思考から書く内容を紡いでいける。
ここ数日、そんなふうに感じた。

おわりに

ブログを書き始めて、気づけばたぶんもう10年ほど経つ。
学生から社会人になり、家庭を持ち、子どもができた。
その中で、ブログを書く目的は変わっていった。環境も目的も変わる中で、ブログを続ける意志は常に持ち続けている。そこだけは、変わっていない。こんなに長く続けることができていて、自分に大きな影響を与えてくれたものって、なかなかない。
ブログを書き始めたきっかけは、もうあまりちゃんとは覚えていない。けどはっきり覚えているのは、先にブログを書いていた人たちがいた、ということ。ぼくはそれを毎日楽しみにして読み、いつしか自分も書きたいと思い、書くという一歩を踏み出すことができた、ということ。
そんなブログに、感謝感謝しかない。そんな魅力的なブログを書かれた方たちに、感謝感謝しかない。
ほんとに、ありがとうございます。これからも、楽しみにしています。

では、お読みいただきありがとうございました。