未熟さの痛感は、成長のチャンス

自分の「未熟さ」というのを、痛感するときがある。
全然うまくいかなかったり、自分の力量のなさを感じたり、できていないことばかりに目がいったり。
こういうときは、落ち込む。ヘコむ。気持ち的に沈む。
がんばっても報われないんじゃないか、やる意味ないんじゃないか、もうなんでもいいや。
そんな気持ちに、投げやりな感じになってしまうこともある。
こういうときには、冷静に今の状況をみることが大切になってくる。

立ち止まって考えると、、、

「未熟さ」は、常日頃痛烈に感じている、というわけではない。
自分にはまだ足りない部分を感じつつも、でもそれに打ちひしがれることはなく過ごしている。
「未熟さ」を感じつつも、打ちひしがれるほどではない状況。これが、普段の状況、と言える。
に対して、落ち込むほど「未熟さ」に打ちひしがれているときは、いつも以上に未熟さを感じているわけで、ヘコみ、落ち込みながらも、なんとかしたいという気持ちもいつも以上に持っている。
この、「なんとかしたい」という気持ちを、プラスのパワーに変えることができれば、「未熟さ」を痛感しているときというのは、いつも以上に成長のチャンスが秘められているんではないか。
「未熟さ」に打ちひしがれている自分を、沈んでいる自分をはねのけることができれば、自分に大きな変化を起こせるのではないか。
未熟さの痛感は、成長のチャンスではないか。
そう、思うことができた。

未熟さに打ちひしがれるたび、こう思うことができれば、そのたびに一つ、成長できる気がする。

おわりに

「未熟さ」にヘコみ、沈みながらも、「これはチャンスや、チャンスなんや」と思えた。
そう思えた自分を褒めてやろうと思うし、そう思えたんだってことを残しておきたいから、ここに書き記しておこうと思った。

未熟さの痛感は、成長のチャンス。どんと来い、自分の「未熟さ」。

では、お読みいただきありがとうございました。

読み返してみて

この文章は過去のブログにて公開したもので、書いたのは7年前。
今でも未熟さを感じることはいくらでもあるし、きっとこれからも未熟さを感じ続けると思う。
で、今は「どんと来い、自分の「未熟さ」」って気持ちはあまりなく、どんと来いとは思っていないけども、未熟やねんからそのぶん調べたり、人に聞いたり、他の人に話してみたりできることが多くなった。
自分で考えることも必要やけど、じゃんじゃん聞いてみよう、話してみようと思うようになった。

未熟さの痛感は成長のチャンスという考え方は、未熟さは乗り越えていくもんだ、というニュアンスがなくもない。
もちろん、成長の糧とすることが大事ではあるけれども、ことによっては自分の未熟さを受け入れ、他の人の手をかりながら進んでいった方がいい結果につながることは多々あると思う。
そういう視点を得ることができていることは、いいことだなと感じる。

では、お読みいただきありがとうございました。