ぼく個人のタスク管理におけるボトルネックはGoogleカレンダーだった

いろいろな記録を残してきた。1日の行動ログとか、イベントのログとか、いろんな写真とか。
で、そういうログというもの、記録というものは、いろんな場所にバラバラに存在しているとちょっと具合が悪い。見返す機会があったときに、どこを探せばいいか混乱するし、下手したら見つけることができない場合も出てくる。
長いこと同じ場所に記録を残しているのであれば、そこから別のところに記録する場所を移すとなると、かなりの勇気というか、思い切りというか、大きな決断がいる。と、思ってた。けどそれは案外あっさり成し遂げられる場合もあるんだな、と知った。


iPhoneを手にしたときを境に、残す記録の量が大幅に、劇的に変化した。
iPhone以前は、記録は全然残っていない。写真はPCにあったり携帯電話に撮り溜めてたりバラバラやったし、メモを積極的に残すこともしていなかった。
スケジュール管理にはマンスリーの手帳を使っていて、1年ごとに手帳を新しくするため、書き込む場所は変わっていた。
それが、iPhoneを手にして以降は、メモや写真を積極的に撮るようになり、それらはMacと同期し、保存され、記録のほとんどがiPhoneがあれば振り返ることができるようになった。その気になれば、数年前の出来事であっても、ものの数十秒で振り返ることができるように。
iPhoneを使い始めてからずーっと利用しているものがいくつかあるが、そのうちの一つにGoogleカレンダーがある。
いや、その言い方は適切でない。
Googleカレンダーがあった。今は、使っていない。


タスク管理に関しては、いろいろなツールを渡り歩いてきた。
紙の手帳を使っていた時もあれば、紙のノートを手帳代わりに使っていた時もあったし、iPhoneにタスク管理のアプリを入れたり、TaskChuteのようなものを自作したり、たすくまを使ったり。
どれを使うときにも、必ず併用するツールがあって、それがGoogleカレンダーだった。
紙の手帳を使いつつもGoogleカレンダーも使っていたし、iPhoneのタスク管理アプリには、カレンダーのスケジュールを取り込めるものも多くてよく利用してた。なので、Googleカレンダーには過去10年分ほどのスケジュールが登録されたままになっており、それらは今は記録の役割をしてくれている。
過ぎたスケジュールは、その日の記録として残ってくれる。なので、Googleカレンダーを見返すことで、過去のその日に何をしていたのか振り返ることができる。
つまり、別のところに記録する場所を移す際にかなりの勇気というか思い切りというか大きな決断がいるものの代表格が、Googleカレンダーであった。なので、しばらくはずーっと使い続けると思っていた。一番、使わないようにはならないものだと思っていた。
けど、使ってない今、改めて考えると、「Googleカレンダーを使う」というのがボトルネックになっていた部分があるように思う。

Googleカレンダーにログを残したいが故に、手間に感じているのにわざわざGoogleカレンダーを使う。
ときには他のツールとの接続がうまくいかず、スケジューリングをミスったり。
Googleカレンダーに登録しているスケジュールをタスクリストと同列に並べるために、わざわざ複雑なことを試みたり、使いやすく感じてたツールから乗り換えたり。
で、いつまで経ってもタスク・スケジュール管理が安定せず、また別の方法を試みたり。
そういう諸々のことは、Googleカレンダーを使わない、という選択によって解消された。


スケジュールは必ずGoogleカレンダーに書く。
当たり前のようにそうしていたけど、当たり前のようにそうし続けるものやと思っていたけど、気づけばGoogleカレンダーにスケジュールを書き込まなくなっていた。
もちろん、今の環境が、使っているツールの使い方がGoogleカレンダーを必要としないだけで、また環境が変われば使い出すかもしれないけど、それはあくまでも選択肢の一つ。今までのように、使うことが当たり前に決まっていた状態からは大きく変化した。
Googleカレンダー上に記録は残らなくなり、結果これまでと今とでは「その日どんな予定があったか?」の記録が残っている先が違っていることになる。けど、案外気にならない。
これは、今の環境が快適やからに違いない。
記録うんぬんは、Googleカレンダー以外にも残っているから、それでいいか、と。
それよりも、使わない方が快適なら使う必要ないじゃないか、と。


そんなことを、うちあわせCast 第七十二回:Tak.さんと粒度を揃えたくなる現象についてを聞いて、考えていた。

「記録すること」の重要性

「記録しておく」。自分の中でその行為の重要性が日に日に増していっております。元来、めんどうくさがりなぼくですが、色々と工夫しながら、手間無く簡単に、かつ意味のある記録をする方法を模索しております。
なぜそんなに「記録」が重要なのか。

不確かな「記憶」と確かな「記録」

「過去の自分は他人である」と言われるほど、記憶はあいまいで、忘れ去られることも多く、また、知らず知らずのうちに書き換えられることも多々あります。
様々なことを書き留め、記録しておく。それしか曖昧な「記憶」に対抗する術はありません。

「初心」を記録する

「初心者忘れるべからず」と言われるのは、初心は忘れやすいものだからでしょう。それをしっかりと書き留めておく。
一番始めに燃えたぎっていたやる気・情熱というのは、少しずつではありますが確実に弱まって来るものです。それを再燃させるには、はじめの決意を蘇らせ、そのときの気持ちを取り戻すことです。人は知らず知らずの間に変化していき、初心を忘れてしまうこともあります。そんな自分に活を入れるためにも、「初心」は必要になってきます。

「時間」を記録する

時間は過ぎ去っていくもので、あえて目を向けることをしなければ、どんどん浪費していってしまいます。それを防ぐためにも、時間の記録を取ることは重要すぎてなりません。
時間の記録をとることで、行動にかかる時間の見積もりが正確になって行きます。もし記録がなければ、いくら理想の時間の使い方を考えたとしても、実際の使い方と照らし合わせることができず、机上の空論となってしまいがちです。
また、見積もりが正確になると、一日の見通しが良くなります。それは集中の大敵「不安」を取り除くことにつながり、より集中して作業に取り組むことにつながります。

「そのときそのとき」を記録する

日記やライフログも大切な記録の一つです。その日一日を記録することで、自分の歩みを確固たるものとすることができます。
日記では、毎日の自分の変化に注目して記録することもなかなかいいです。ぼくは毎日「今日は昨日と比べてどんな成長があったか?」という質問に答えるようにしています。
日々の変化というのは見えにくく、自分が成長できている実感というのはなかなか感じることはできません。成長の実感は次の成長への大きなモチベーションとなります。それを逃さないためにも、毎日の変化を見つめていくということは、とても大切です。

「目標」を記録する

「よしやるぞ!」と目標を設定しても、ぼく、よく忘れちゃいます。忘れちまったらおしまいなので、目標を書き留め記録記録。そのときそのときの目標を記録することは、大きな視点で自分がどこに向かっているのかを確認することができ、方向を見失わないですみます。
また、目標の達成度を知るためにも記録は必要です。そして目標設定と達成度の確認を繰り返すことで、目標設定力というのはついていくものだと思います。

おわりに

「記録」するのは、めんどうくさいです。記録する対象が増えれば増えるほどめんどうくささは増し、「いちいちやってらんない!」ってなっちゃうかもしれません。でも、「記録する」ことは間違いなく大切な行為です。
めんどうくささに対抗するためにも、記録の大切さを自覚することが必要なんじゃないかなーとか思ったりしています。

では、お読みいただきありがとうございました。

おわりにのおわりに

この記事は10年前に書かれたもの。このころからずっと、記録を大切にしています。つまり、10年分の「そのときそのとき」や「目標」の記録が蓄積されている、ということです。
それらが実用的に役立っている、というわけではありませんが、その気になれば10年前の今日に何をしていたのか詳細に振り返ることができます。12年前になるとまったく記録が残っておらず、なにしてたかなんて一切わからないわけで。
記録があるかないかはえらい違いだなぁと感じます。

記録は、ときどき役に立つことはありますが、劇的に何かを変えてくれるのかというとそういうものでもないと思います。
でも、確かにそれが存在している、ってところに価値があるのかもな、と今は感じます。

では、お読みいただきありがとうございました。

他の人のを見るよりも、自分で作った方がはるかに理解が深まり、活用へとつながりやすい

「ルーブリック」というものが、新しい評価基準として注目されてたりされてなかったりするらしいです。
今、高校3年間を通して、どういった進路学習を日々の授業の中に組み込んでいけばいいかじっくり考えています。外部のNPO法人に協力していただき、来年度に向けて目指す生徒の姿などを時間をかけて練り込んでいっている段階です。で、そこでルーブリックというのを作成しているのですが、実際にこういったものを作成するのは初めてのことで、ルーブリックの存在すらあまり知りませんでした。

ただ、ちょっと思い出してみると、ルーブリックを目にし、自己評価をした経験がありました。それは、去年の10年経験者研修でのこと。
教職員としての評価をするための壮大なルーブリックが提示され、それを見ながら各項目に関して自分はどの段階にいるか、ということをまず確認します。そして、次の段階に至るためには何が必要か考え、1年間の研修を計画する、ということを研修の序盤でおこないました。そういえば。

研修におけるルーブリックは、項目数が多く、レベルも5段階ほどだったように思います。
それを見た瞬間、「うっ。」とした記憶がありました。
それ以上に、そこに書かれていることが頭にほとんど入ってこなかったことを覚えています。

ただ、進路学習のためのルーブリックを作成していて、これを活用することができれば、より明確な狙いをもった授業を考えることができると感じますし、生徒一人一人が目指すところも見えてくるように思います。

進路学習のためのルーブリックと、10年研修のルーブリックの一番の違いは、「自分で作成したか否か」。
これはかなり大事なところだと感じます。
自分たちで作成した、進路学習のためのルーブリックは、十分に全体を理解しているが故、活用できそうな感覚を持てています。
一方で、提示された10年研修のルーブリックは、その壮大さも相まって、なかなか全体像を捉えることができませんでした。
でも、壮大なものであったとしても、それが自分で考えて作成したものであれば、全く違った印象を抱くと思います。

で、これは、生徒に提示するときにも同じことが言える、ということ。
他の人が考えたルーブリックをただ単に提示されても、おそらくは頭には入らないでしょう。
理想は、多分自分たちで話し合いながらルーブリックを作成していくこと。
でもそれが難しいのであれば、ルーブリックの各項目・段階についての丁寧な説明が必要ではないかな、と感じます。
少なくとも、提示するだけで頭に入り、活用できる生徒はなかなかいないと予想されます。


自分でルーブリックを作成してみて、他の人が作ったものを見るよりもはるかに内容を理解でき、活用へとつながっていくという当たり前のことが実感を伴って理解できました。
また、こちらが作成したものを提示する上で気をつけなければいけない点も予想できるようになりました。
やはり何かしら自分で試してみないとわからないことは多いな、と改めて感じた出来事でした。

では、お読みいただきありがとうございました。

未熟さの痛感は、成長のチャンス

自分の「未熟さ」というのを、痛感するときがある。
全然うまくいかなかったり、自分の力量のなさを感じたり、できていないことばかりに目がいったり。
こういうときは、落ち込む。ヘコむ。気持ち的に沈む。
がんばっても報われないんじゃないか、やる意味ないんじゃないか、もうなんでもいいや。
そんな気持ちに、投げやりな感じになってしまうこともある。
こういうときには、冷静に今の状況をみることが大切になってくる。

立ち止まって考えると、、、

「未熟さ」は、常日頃痛烈に感じている、というわけではない。
自分にはまだ足りない部分を感じつつも、でもそれに打ちひしがれることはなく過ごしている。
「未熟さ」を感じつつも、打ちひしがれるほどではない状況。これが、普段の状況、と言える。
に対して、落ち込むほど「未熟さ」に打ちひしがれているときは、いつも以上に未熟さを感じているわけで、ヘコみ、落ち込みながらも、なんとかしたいという気持ちもいつも以上に持っている。
この、「なんとかしたい」という気持ちを、プラスのパワーに変えることができれば、「未熟さ」を痛感しているときというのは、いつも以上に成長のチャンスが秘められているんではないか。
「未熟さ」に打ちひしがれている自分を、沈んでいる自分をはねのけることができれば、自分に大きな変化を起こせるのではないか。
未熟さの痛感は、成長のチャンスではないか。
そう、思うことができた。

未熟さに打ちひしがれるたび、こう思うことができれば、そのたびに一つ、成長できる気がする。

おわりに

「未熟さ」にヘコみ、沈みながらも、「これはチャンスや、チャンスなんや」と思えた。
そう思えた自分を褒めてやろうと思うし、そう思えたんだってことを残しておきたいから、ここに書き記しておこうと思った。

未熟さの痛感は、成長のチャンス。どんと来い、自分の「未熟さ」。

では、お読みいただきありがとうございました。

読み返してみて

この文章は過去のブログにて公開したもので、書いたのは7年前。
今でも未熟さを感じることはいくらでもあるし、きっとこれからも未熟さを感じ続けると思う。
で、今は「どんと来い、自分の「未熟さ」」って気持ちはあまりなく、どんと来いとは思っていないけども、未熟やねんからそのぶん調べたり、人に聞いたり、他の人に話してみたりできることが多くなった。
自分で考えることも必要やけど、じゃんじゃん聞いてみよう、話してみようと思うようになった。

未熟さの痛感は成長のチャンスという考え方は、未熟さは乗り越えていくもんだ、というニュアンスがなくもない。
もちろん、成長の糧とすることが大事ではあるけれども、ことによっては自分の未熟さを受け入れ、他の人の手をかりながら進んでいった方がいい結果につながることは多々あると思う。
そういう視点を得ることができていることは、いいことだなと感じる。

では、お読みいただきありがとうございました。

時間はかかったとしても、じっくり読むことで得られるもの

ここのところずっと、ピーター・F・ドラッカーの「マネジメント 課題、責任、実践」の上巻を読んでいます。
上・中・下とあり、全てを読み終えるまではかなりの時間を要すると思われますが、わりとじっくり目に上巻を読み進めています。
「マネジメント エッセンシャル版」のほうなら2回くらい読んだのですが、いまいち内容が頭に入っていない感じでして、エッセンシャル版ではないのを読もう、と思い立ち、上・中・下の3巻を「えいやっ!」と購入。結果、まだ上巻の中盤ながら、すごくこの買い物は良かった。
もちろん、エッセンシャル版とは内容が違っている、というのもそう感じる要因だと思うのですが、それに加えて、じっくり読み進めていることも大きく関係していそうです。


仕事では、分掌長というものをさせてもらっていまして、一応進路指導部という分掌のまとめ役をしています。
教員なので企業に勤めているわけではありませんが、それでも「マネジメント」から得ることはすごく多い、と感じています。
最近特に問うようになったのは、「われわれの事業は何か?」というもの。
マネジメントにおいて、企業のミッション・目的を考える上で欠かせないもの、成果をあげることができるか否かに大きく影響を与えるものとして、「われわれの事業は何か?何になるか?何であるか?」という問いの重要性が説かれています。
上巻の序盤に書かれており、その章の内容を掴むことができた感覚があったからか、「われわれの事業は何か?」を問う姿勢が身についたように思います。
で、この問いについて考えた上で進路指導部の活動を見ていくと、今のやり方ではダメだと、変えていかないといけないなと思うところがあり、こう変えていこうという方針がやっと見えてきたってのが今の段階。
今年で分掌長をするのは2年目。全体を理解できた、把握できたところででマネジメントを読むこよができて良かったなぁ、と感じます。

そして、そう感じるのは、じっくりと読み進めていることが大きい。
読む中で重要に思ったところに関しては付箋を貼り、考えたことをメモしながら読み進めていきます。
これまでは、そのまま最後まで読み進めていき、読み終えたら付箋を貼った部分を書き写して読書メモを完成としていました。が、今回はある程度のまとまりごとに読み進めるのを一旦止め、手書きで本文を書き出して読書メモを作成し、要点を書き出す中で理解したことを書き添えていっています。
そのおかげで、これまでの内容を自分の中に多少は落とし込んだ状態で続きを読み進めることができているように感じます。

この読み方ができているのは間違いなく、「ブックカタリスト」を聞いているから。
おもしろいポッドキャストを紹介します」というエントリ内でも書いたように、ブックカタリストを聞くことで、読むペースは落ちたとしても1冊1冊をじっくり読むのもいいもんだ、読んでみたい本が積み上がってもいいじゃないか、と思えているからに他なりません。
他にも読みたい本や家の中で読まれるのを待っている本は何冊もありますし、マネジメントの中巻・下巻も待ち構えているわけですが、次を読みたい気持ちよりも今は1冊1冊をじっくり読んでいきたい気持ちがまさっている状態です。
この変化はとても大きいものですし、で実際楽しく、学び多く読み進めることができているので、時間はかかったとしても1冊をじっくり咀嚼しつつ進めていきたいな、と思います。


とはいえ、他にも本は読みたいので、1つの読み方に固執せず、いろんな本の読み方をしながら、読書生活を充実していきたいものです。

では、お読みいただきありがとうございまいた。