毎日触れるものだから、えぇキーボードを購入

キーボードを買ってしまいました。えぇやつを。


きっかけは、ふと職場と家で同じキーボードを使いたい、と考えたことでした。しかも、打ち心地のいいやつを。

職場では、LogicoolのキーボードをPCにつないで使い、家ではMacBookのキーボードをそのまま使っていました。それで特に不自由はなかったものの、というか、パンタグラフのキーボードしか今まで使ったことがなかったので特に打ち心地についてはこだわりはなかったものの、ほんとにふと打ち心地のいいキーボードに興味が湧き、調べ始めました。
で、かなり色々悩んだ結果、職場でも家でも同じキーボードを使うことができて、なおかつ打ち心地もいいものということで、奮発してHHKB Professional Hybrid Type-Sを購入。これで、毎日の持ち物にキーボードが追加されました。

使ってみて、今まで浅いキーボードしか使ったことがなかったので、深いストロークのキーボードに魅了され中です。
1つのすごくお気に入りのキーボードを家でも職場でも使っみて、もう以前のキーボードには戻れないだろうな、と感じます。
劇的な変化を遂げたわけではありませんし、タイピングが速くなって効率が上がるわけでもない。今までと生活は全く変わりません。けれども、キーボードの心地よさは、ムフフと感じさせてくれます。
ふとした拍子に、ムフフと感じる。
なんでもないふとした時に幸せを感じることってあると思うのですが、それと似ている気がします。
別に何かが大きく変わったわけでもない。今まで通り、日常は過ぎていく。けど、ふとした時に、心地よさに浸ることができる。
いいですね。

使いはじめは、そこまで劇的に気にいるということはなかったものの、使ううちに心地よさは増し、久しぶりに今まで使っていたキーボードでタイピングした時にその落差に「うおっ!」となる感じ。

HHKBはまず間違いなく長いこと使っていくことは決定して、ただ職場と自宅とを持ち運んで往復させるのがちょっとずつ嫌になってきまして。
ということで、職場用と自宅用でキーボードを使い分けようということになりました。当初の目的はどこへやら。
いっそキーボードを楽しんでやろうと思いまして、キーキャップと軸が交換可能なものを購入。色々変えながら楽しんでいこうと考えています。

やばいところに足を踏み入れていっているのでしょうか。


今回のえぇキーボードの購入で、家でも仕事場でも毎日触れるものなので、キーボードにこだるのはありだなぁと思いました。
どこまで足を踏み入れるのかは、よく考えないといけない領域のような気がしますが。

では、お読みいただきありがとうございました。

いろんな過去記事のいくつかの傾向

このブログは毎週火曜と金曜に更新しています。
で、1,2ヶ月ほど前から始めているのが、金曜の更新の時には、旧ブログの過去記事から選んだエントリに手を加えて改めて投稿する、というもの。
その試みをはじめてから、過去の10年前から6年前ほどの記事を読み返す機会が増えたのですが、記事によって抱く感想が違い、違う中にもある程度の傾向が見えてきました。

まずは、今、読んでも面白いと感じるもの。
自分の過去記事って、けっこう面白いと感じてしまうんですよね。
言い回しや文章の持って行き方が自分好みなのが一番の理由だと思いますが、中には着眼点に感心させられる記事もあったり、あぁえぇ記事やなぁと思うものも少ないながらもあったり。
過去記事のほとんどが、書いた内容を忘れているので、読み返すとなかなかに新鮮で、かつ楽しく読めます。
で、面白いと感じた記事を、少し手を加えて金曜日に投稿しています。
全体の記事数に対して、再度投稿できそうだと感じる記事はかなり少なく、そんな記事を探すために毎週けっこうな数の過去記事を読み返しています。

一番多いのは、情報が古くなっていて改めて投稿することはできないと感じるもの。
iPhoneのホーム画面を共有する記事や、アプリの解説記事はさすがにもう再度投稿するような内容でもないので、読み返すだけで終わり、となります。
個人的には楽しい記事だけど、公開はしないまま放置となる記事たちです。

そして、過去記事には、読むと恥ずかしく、切なく、それでいてうらやましくなる類の記事も結構あります。
大学院生の時から始めたブログであり、学生のときにはかなり多くの記事数を更新していました。
記事数は減りつつも、卒業して働き始め、結婚し、生活がガラリと変化しつつもなんとか続けてきたブログなので、その時々によって自分の様子が違ってきます。
なんだか一生懸命な感じが記事に出ていたり、色々試して紆余曲折していたり、貪欲な部分があったり。
目標を定めてそれに向かって行こうとしている記事や、必死になって習慣化に取り組んでいる記事、継続していくためにもがいている記事。
あれこれ試してみては、その結果について考え、次の手をまた試している記事。
そういうのを読むと、恥ずかしく、切なく、それでいてうらやましくなるわけです。
今は、昔ほどに懸命でない、頑張っていないよなぁと。
昔の方が、理想を掲げて進んでいってたよなぁと。
別にそのことに対してネガティブな感情は持っておらず、今は今で充実しているのですが、それでもやはり今は持っていないものを過去の自分は持っていたんだな、と感じます。

あらためて読むとあぁおもしろいなと感じる記事、今は情報が古くなっている記事、恥ずかしく、切なく、それでいてうらやましくなる類の記事。
読み返して、そういった色々な記事に触れ、刺激を受けながら、金曜日の更新を楽しんでいこうと思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

映画鑑賞のためのヘッドホン購入と、それに至るまでの思考の連なりと

映画を見るのが好きで、よく映画鑑賞をするのですが、見るのは決まって夜遅い時間。
子どもがまだ小さいので、映画を見るとなると子どもたちが寝静まってからになるからです。

6年ほど前に、音響を充実させようとスピーカーを購入し、現状は3.1chの音響の中、映画を見ています。
ただ、子どもが寝てから映画を見るとなると、子どもを起こしてはいけないので、せっかくの音響であっても音量を小さくしないといけません。
なので、大音量で映画を鑑賞する、という機会は年に数回ほどしかありませんでした。
何年も何年も、ずーっと小さい音量で映画を見ていた、というわけです。


話は変わりますが、つい先日、Amazonのプライムデーが開催されていました。
基本的には、色々と安くなっていても、別に必要ないものは必要ないのでわざわざプライムデーの日に何かを買う、ということはしていないのですが、Twitterで「Air Pods Proが安くなっている」という情報を目にしたので、さすがに気になり、一気に欲しくなってしまいました。
なぜなら、映画鑑賞とAir Pods Proが結びついたからです。

Air Pods Proは、空間オーディオに対応しており、それはすなわち映画を見るときに大いに役立ってくれるのではないかという期待を抱かせてくれます。
空間オーディオを実現するがためにスピーカーをいくつも購入していたわけですが、現状は小さい音でしか聞くことができず、臨場感とは程遠い音の中、映画を鑑賞していました。
でも、Air Pods Proなら、その空間オーディオを実現でき、なおかつ大きな音で慣らしていても子どもが起きることはありません。イヤホンなわけですから。
で、危うく購入しかけたのですが、なんとか踏みとどまりました。
Air Pods Proはおそらく音質も良く、満足させてくれるだろう。でも、同じ値段を出せば、もっと満足度の高い音で映画を鑑賞できるのではないか、という考えが頭をよぎったからです。
ヘッドホンを探せば、Air Pods Proを超えるものはあたくさんあるのではないか、という考えが。

ここまできてようやく、映画鑑賞のためのヘッドホンを検討するという段階にきました。
で、ここに至る道のりが、なんとも象徴的だなぁと思いまして。

というのも、周りに音が鳴らないように静かな中映画鑑賞をしようと思えば、ヘッドホンの検討は真っ先に思い浮かびそうなものです。実際、イヤホンで映画を見たことは何度もありますし、大きな音を鳴らさずにそこそこの音で映画を楽しむ経験は何度もありました。
なのに、映画鑑賞用のヘッドホンの検討に至るまでに、まずAmazonでのAir Pods Proの値引きがあり、それがきっかけとなってAir Pods Proを検討し、そこから同じ値段でもっと充実させるにはヘッドホンがあるじゃないか、というところに至る。
ヘッドホンという、静かに映画を鑑賞するための道具として真っ先に思い浮かびそうな候補を、そこまで全然直線的でなく、しかも直接は関係していないところを出発点としている。
思考は、思ってもみないところを発端とすることがあり、ごくごく単純な到達してみるとなぜ真っ先に思い浮かばなかったんだと感じるような帰結になかなか辿り着けないこともあり、思考の連鎖が連なっていってくれることもあり。
今回の出来事は、そういう思考の性質を象徴するものだなぁと感じたわけです。


それはさておき、購入したのは「サブウーファー搭載ヘッドホン Crusher Evo TRUE BLACK」。
低音の響きに合わせて、ヘッドホンが振動するという、重低音の迫力満点なヘッドホン。
何度か映画を見ましたが、小さい音でこそこそ見るよりもそりゃあもう何倍もいい感じです。
ほぼ映画のためだけに購入したので、とことんこのヘッドホンで映画を見てやろうと思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

一人で考えるよりも、シェアすればいい

先日、とりとめのないことを書きました。

ただ単に読書メモに対して自分がどう考えるのか書いただけのエントリですが、そこには「いろんな方の読書メモスタイルを知りたい」という願いを込めました。
より良い、自分に合った読書メモの形を考えてはいますが、一人で考えるよりもいろんな方の意見を聞く方がよっぽど良いからです。そしてそれは、他の多くの方にとっても参考になります。自分が考えつかないアイデアを、他の人は必ず持っている。これはもう紛れもない真実です。

アイデアの宝庫

ここで、紙とえんぴつを使って次のことをやってみてください。
「3つの丸と1つの線で、絵を描く」
どんな絵をお描きになりましたか?ぼくは発想力に乏しいのか、こんな絵を描きました。

「だんご」です。この絵を描いた人も多いのではないでしょうか。お暇があればここからさらにどんな絵が描けるのか考え、1つでも多くの絵を生み出してみてください。どんなに多く生み出したとしても、次にお見せするいくつかの絵の中には自分の描いた絵と違うものが必ずあると思います。

「自分が考えつかないアイデアを、他の人は必ず持っている。」言わば”他の方の考えたち”というのは、”アイデアの宝庫”です。じゃあ、自分一人で考えるよりも悩みをシェアしてしまえばいい。ぼくのブログの場合、返答がくることは少ないですが、それでも書かないよりは書いた方が良い。そう強く思う今日この頃です。

おわりに

ぼくにブログを書くきっかけを与えてくれたのが、@rashita2さんのR-styleです。そこでいの一番に書かれているのが「Sharing is Power!」という言葉。ブログを書き始めた当初はシェアするということがどういうことなのかわかっていませんでした。気がつけばこの「iPhoneと本と数学となんやかんやと」も半年以上経過し、ようやくその言葉の意味をぼく自身感じるようになってきたのかもしれません。
では、お読みいただきありがとうございました。

おわりにのおわりに

さらに10年が経ちました。
今もこうしてブログを更新しているのは、シェアすることで誰かの、何かの役にたったらうれしいなーという気持ちから。
この気持ちが続く限り、何かしら書き続けていくんだろうなーと思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

特に時間の制限をせずに取り組む時間は大事だけど日々取り組むことを疎かにすべきではない

毎日、1人で過ごす時間を1時間ほどとることができているので、その時間を利用して、本を読むあるいは本の内容をノートにまとめたり、ブログを書いたり、数学を学んだり、日記を書いたりしています。
1時間に全部を詰め込んでいるので、1つにかけることのできている時間は長くて20分ほど。だいたい毎日15分から20分の時間でブログを書き進めたり、本を読んだりしています。

最近、久しぶりに時間をかけて本を読んだり書きものをしたりする時間をとることができた日がありました。それぞれ1時間ほど取り組むことができたのですが、、、感想は、「これぐらい時間をかけないと内容を把握できないことが・理解まで至らないことがある」というもの。

いついつまでやろうとか考えずとにかく取り組み始めたのですが、そうすると、時間を制限していないので、これまでまとめた内容を読み返したりしながら続きをまとめていくことができる。で、ふーっと一息つくと気づけば1時間ほど経っているので、そのタイミングで終了。
そんなとりくみ方をして、あぁ、あらかじめ時間を区切らず取り組むのはいぃなぁとしみじみ思いました。
1時間とはいえ、毎日そんな風に取り組むのもありだと思うのですが、それだと1つのことしか着手できない。それが嫌で、短く時間を区切りながらいくつかのことに取り組んでいます。

特に時間を制限せずに取り組む。そういう学びの時間は、とても大事だと感じました。
ただ、そんな風に思っていると、「今日は15分しかできそうにないから、やってもあんまし意味ないやん」と考えてしまいそうになるわけですが、そこは切り分けて考えなくてはいけなくて。
そう考えてしまうと、やらないという選択肢をとりがちになり、結局何もしないという結果に終わってしまいかねない。
なので、時間は短くとも、まず「やる」ってのはとても大事。さらには、時間を制限せずに取り組むことができる時があれば万々歳、くらいに考えて、今日もこうして短い時間ながらブログを書いている、というわけです。

では、お読みいただきありがとうございました。

「将来後悔したくないから」というのを動機にしなくなった

少し前から、旧ブログ記事を読み返して、そこで目に留まったものを必要であれば加筆し、このブログにて再投稿しています。過去記事の再投稿と、新たに書いたものとを交互に公開する形で、週2回更新を続けています。
前回に公開した「5年後、10年後に後悔はしたくない」は、過去記事の再投稿で、ちょうど10年前のものをほぼそのまま載せました。
で、10年後に後悔したくない、と書いてから、10年経って、昔の自分から見たら今の自分は果たしてどうなのか、ということを考えました。考えざるを得ませんでした。


未来の自分がこれを読み、どう感じるのか。若いなぁと思うのか、よしやるぞ!と奮い立つのか。そのときを迎えるまではわかりませんが、どうであっても成長し続ける自分でいてほしいとそう願います。

「成長し続けたい。」
幸い、この気持ちはなんだかんだあった中でもずーっと持ち続けています。
まだまだ学んでいきたいし、吸収していきたい。その気持ちがあるから、毎日短いながらも時間を確保し、本を読んだり勉強したり、学んだことをまとめたりすることができています。
なので、10年前の自分から及第点をもらうことはできるのではないか、とは思います。

日々の成長は見えにくく、本当にやってて意味があるのか疑問に思っても、勇気をもって続けていく。毎日の記録を怠らず、自分の成長を少しでも実感できる形にしながらとにかく続けていく。

「小さな継続」はずーっと途絶えることなく、今までやってこれています。
実際、自分が成長できているのかすらよくわからず、本当にやってて意味があるのか疑問に思って途絶える習慣はあったものの、でも、何かしら続けることができています。
たとえやらなくなったことがあったとしても、きっと、またやりたくなるときはくるし、こなかっても別にたいしたことはないという心持ちで、でも成長するために何かしら行動することができている、という感じ。
ただ、仮に10年前のぼくが今の自分を見たとすると、きっと多少はがっかりするのかもな、とも感じます。

もっと授業の力を上げために頑張れるんじゃないかと思うでしょうし、日々数学を学んでいけるのでは?と考えるでしょうし、ガツガツ努力している自分であってくれよと願うでしょう。
過去の自分の理想と比較したら、まぁダメダメやろなぁと思います。
ただ、後悔は特に感じていなくて。
昔は、将来後悔したくないからというのは、自分の中で結構大きな動機になっていたように思います。行動する原動力の一つになっていました。でも今は、そういう、将来後悔したくないから、という考えを抱かなくなりました。
今出来うるかきりのことを、楽しんでやっていこう。
そんなゆるい気持ちにシフトしたと感じます。で、今の自分は、そんくらいの心持ちの方がいいのではないかなと、そのほうがかえって後悔は少ないのではないかなと思っています。

「5年後、10年後に後悔はしたくない」という気持ちはあんまりなく、もちろん後悔はしたくはないですが、将来後悔したくないからというのを動機にしなくてもいいかな、と。
まぁ楽しく頑張っていけたらなーというスタンスでいければいいなー、それで結果的にも満足のいく日々を歩めたらいいかなーという感じです。
もちろん、成長していきたいという気持ちを軸として。

では、お読みいただきありがとうございました。

5年後、10年後に後悔はしたくない

(この記事は、今からちょうど10年前の2011年6月に書かれたものです)

自分は成長することができているのか。いつも不安に思います。
やめようと思ってもやめられない、続けようと思っても続けられない。それの繰り返しで、いつしか自身をすっかりなくし、成長をあきらめる日が来てしまうのではないかと思ったりします。
でも、今なんとか踏ん張れている、成長したいという気持ちを絶やさず持ち続けることができているのは、とにかく「5年後、10年後に後悔はしたくない」から。

日々の変化は目に見えない

一日を経るごとに、ちょびっとすぎて目に見えないだけで、自分のどこかは変化を見せているはずです。
しかし、この「目に見えない」というのがなかなかやっかいです。

■やめても気づかない

行動をし始めたとしても、少しの変化しか起きていないなら、成長が実感できないなら「本当にこのままで大丈夫か」と不安になります。もしそこでやめてしまったとしても、変化が小さい分、今は「やめてもどうってことない」と思ってしまいます。でもそれが5年後、10年後にはどうなっているのか。
ほんの些細な成長でも、それが積み重なれば脅威となります。それを自覚していないと、つよく意識していないと、貧弱なぼくはすぐに弱音を吐き、何かに付けて言い訳をし、やがて行動することをやめてしまいます。

今何かをしないと、し続けないと

そんな弱い自分を奮い立たせるためにも、「今のような日々を繰り返し、5年後、10年後に後悔はしなくてすむのか?」という問いかけを常にしていくことが、自分には必要です。そして何か行動を起こしたのであれば、それを愚直にやり続けること。

■「大きな単発」よりも「小さな継続」

大きな行動を一回やってはいおしまいよりも、小さい行いでもずーっと継続して続けていくことが、成長には大切だと感じます。日々の成長は見えにくく、本当にやってて意味があるのか疑問に思っても、勇気をもって続けていく。毎日の記録を怠らず、自分の成長を少しでも実感できる形にしながらとにかく続けていく。それが後々大きな違いとなって現れると信じて。

バタフライ・エフェクト

1963年、気象学者のエドワード ローレンツがシンガポールの1羽の蝶の羽ばたきが、ノースカロライナにハリケーンを起こしうるという理論を発表しました。これを「バタフライ・エフェクト」と言うそうです。真偽のほどは定かではありませんが、こんな風に「通常なら無視できると思われるような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となる現象」って、実際に起こりうると思うのです。自分の成長にも。

■今こそ羽ばたくとき

今起こしたほんの些細な行動が、将来大きな渦となってかえってくるのではないか。そう思うといてもたってもいられません。バタフライ・エフェクトの蝶のように、今こそ羽ばたくとき。やり始めることに早いも遅いもありません。今この瞬間から、自分を変えていきたいと思います。

おわりに

今回は記念すべき本ブログ100エントリ目。ということで、自分の中で特別な内容にしてみました。未来の自分がこれを読み、どう感じるのか。若いなぁと思うのか、よしやるぞ!と奮い立つのか。そのときを迎えるまではわかりませんが、どうであっても成長し続ける自分でいてほしいとそう願います。

では、お読みいただきありがとうございました。

「記録すること」の重要性

「記録しておく」。自分の中でその行為の重要性が日に日に増していっております。元来、めんどうくさがりなぼくですが、色々と工夫しながら、手間無く簡単に、かつ意味のある記録をする方法を模索しております。
なぜそんなに「記録」が重要なのか。

不確かな「記憶」と確かな「記録」

「過去の自分は他人である」と言われるほど、記憶はあいまいで、忘れ去られることも多く、また、知らず知らずのうちに書き換えられることも多々あります。
様々なことを書き留め、記録しておく。それしか曖昧な「記憶」に対抗する術はありません。

「初心」を記録する

「初心者忘れるべからず」と言われるのは、初心は忘れやすいものだからでしょう。それをしっかりと書き留めておく。
一番始めに燃えたぎっていたやる気・情熱というのは、少しずつではありますが確実に弱まって来るものです。それを再燃させるには、はじめの決意を蘇らせ、そのときの気持ちを取り戻すことです。人は知らず知らずの間に変化していき、初心を忘れてしまうこともあります。そんな自分に活を入れるためにも、「初心」は必要になってきます。

「時間」を記録する

時間は過ぎ去っていくもので、あえて目を向けることをしなければ、どんどん浪費していってしまいます。それを防ぐためにも、時間の記録を取ることは重要すぎてなりません。
時間の記録をとることで、行動にかかる時間の見積もりが正確になって行きます。もし記録がなければ、いくら理想の時間の使い方を考えたとしても、実際の使い方と照らし合わせることができず、机上の空論となってしまいがちです。
また、見積もりが正確になると、一日の見通しが良くなります。それは集中の大敵「不安」を取り除くことにつながり、より集中して作業に取り組むことにつながります。

「そのときそのとき」を記録する

日記やライフログも大切な記録の一つです。その日一日を記録することで、自分の歩みを確固たるものとすることができます。
日記では、毎日の自分の変化に注目して記録することもなかなかいいです。ぼくは毎日「今日は昨日と比べてどんな成長があったか?」という質問に答えるようにしています。
日々の変化というのは見えにくく、自分が成長できている実感というのはなかなか感じることはできません。成長の実感は次の成長への大きなモチベーションとなります。それを逃さないためにも、毎日の変化を見つめていくということは、とても大切です。

「目標」を記録する

「よしやるぞ!」と目標を設定しても、ぼく、よく忘れちゃいます。忘れちまったらおしまいなので、目標を書き留め記録記録。そのときそのときの目標を記録することは、大きな視点で自分がどこに向かっているのかを確認することができ、方向を見失わないですみます。
また、目標の達成度を知るためにも記録は必要です。そして目標設定と達成度の確認を繰り返すことで、目標設定力というのはついていくものだと思います。

おわりに

「記録」するのは、めんどうくさいです。記録する対象が増えれば増えるほどめんどうくささは増し、「いちいちやってらんない!」ってなっちゃうかもしれません。でも、「記録する」ことは間違いなく大切な行為です。
めんどうくささに対抗するためにも、記録の大切さを自覚することが必要なんじゃないかなーとか思ったりしています。

では、お読みいただきありがとうございました。

おわりにのおわりに

この記事は10年前に書かれたもの。このころからずっと、記録を大切にしています。つまり、10年分の「そのときそのとき」や「目標」の記録が蓄積されている、ということです。
それらが実用的に役立っている、というわけではありませんが、その気になれば10年前の今日に何をしていたのか詳細に振り返ることができます。12年前になるとまったく記録が残っておらず、なにしてたかなんて一切わからないわけで。
記録があるかないかはえらい違いだなぁと感じます。

記録は、ときどき役に立つことはありますが、劇的に何かを変えてくれるのかというとそういうものでもないと思います。
でも、確かにそれが存在している、ってところに価値があるのかもな、と今は感じます。

では、お読みいただきありがとうございました。

他の人のを見るよりも、自分で作った方がはるかに理解が深まり、活用へとつながりやすい

「ルーブリック」というものが、新しい評価基準として注目されてたりされてなかったりするらしいです。
今、高校3年間を通して、どういった進路学習を日々の授業の中に組み込んでいけばいいかじっくり考えています。外部のNPO法人に協力していただき、来年度に向けて目指す生徒の姿などを時間をかけて練り込んでいっている段階です。で、そこでルーブリックというのを作成しているのですが、実際にこういったものを作成するのは初めてのことで、ルーブリックの存在すらあまり知りませんでした。

ただ、ちょっと思い出してみると、ルーブリックを目にし、自己評価をした経験がありました。それは、去年の10年経験者研修でのこと。
教職員としての評価をするための壮大なルーブリックが提示され、それを見ながら各項目に関して自分はどの段階にいるか、ということをまず確認します。そして、次の段階に至るためには何が必要か考え、1年間の研修を計画する、ということを研修の序盤でおこないました。そういえば。

研修におけるルーブリックは、項目数が多く、レベルも5段階ほどだったように思います。
それを見た瞬間、「うっ。」とした記憶がありました。
それ以上に、そこに書かれていることが頭にほとんど入ってこなかったことを覚えています。

ただ、進路学習のためのルーブリックを作成していて、これを活用することができれば、より明確な狙いをもった授業を考えることができると感じますし、生徒一人一人が目指すところも見えてくるように思います。

進路学習のためのルーブリックと、10年研修のルーブリックの一番の違いは、「自分で作成したか否か」。
これはかなり大事なところだと感じます。
自分たちで作成した、進路学習のためのルーブリックは、十分に全体を理解しているが故、活用できそうな感覚を持てています。
一方で、提示された10年研修のルーブリックは、その壮大さも相まって、なかなか全体像を捉えることができませんでした。
でも、壮大なものであったとしても、それが自分で考えて作成したものであれば、全く違った印象を抱くと思います。

で、これは、生徒に提示するときにも同じことが言える、ということ。
他の人が考えたルーブリックをただ単に提示されても、おそらくは頭には入らないでしょう。
理想は、多分自分たちで話し合いながらルーブリックを作成していくこと。
でもそれが難しいのであれば、ルーブリックの各項目・段階についての丁寧な説明が必要ではないかな、と感じます。
少なくとも、提示するだけで頭に入り、活用できる生徒はなかなかいないと予想されます。


自分でルーブリックを作成してみて、他の人が作ったものを見るよりもはるかに内容を理解でき、活用へとつながっていくという当たり前のことが実感を伴って理解できました。
また、こちらが作成したものを提示する上で気をつけなければいけない点も予想できるようになりました。
やはり何かしら自分で試してみないとわからないことは多いな、と改めて感じた出来事でした。

では、お読みいただきありがとうございました。

未熟さの痛感は、成長のチャンス

自分の「未熟さ」というのを、痛感するときがある。
全然うまくいかなかったり、自分の力量のなさを感じたり、できていないことばかりに目がいったり。
こういうときは、落ち込む。ヘコむ。気持ち的に沈む。
がんばっても報われないんじゃないか、やる意味ないんじゃないか、もうなんでもいいや。
そんな気持ちに、投げやりな感じになってしまうこともある。
こういうときには、冷静に今の状況をみることが大切になってくる。

立ち止まって考えると、、、

「未熟さ」は、常日頃痛烈に感じている、というわけではない。
自分にはまだ足りない部分を感じつつも、でもそれに打ちひしがれることはなく過ごしている。
「未熟さ」を感じつつも、打ちひしがれるほどではない状況。これが、普段の状況、と言える。
に対して、落ち込むほど「未熟さ」に打ちひしがれているときは、いつも以上に未熟さを感じているわけで、ヘコみ、落ち込みながらも、なんとかしたいという気持ちもいつも以上に持っている。
この、「なんとかしたい」という気持ちを、プラスのパワーに変えることができれば、「未熟さ」を痛感しているときというのは、いつも以上に成長のチャンスが秘められているんではないか。
「未熟さ」に打ちひしがれている自分を、沈んでいる自分をはねのけることができれば、自分に大きな変化を起こせるのではないか。
未熟さの痛感は、成長のチャンスではないか。
そう、思うことができた。

未熟さに打ちひしがれるたび、こう思うことができれば、そのたびに一つ、成長できる気がする。

おわりに

「未熟さ」にヘコみ、沈みながらも、「これはチャンスや、チャンスなんや」と思えた。
そう思えた自分を褒めてやろうと思うし、そう思えたんだってことを残しておきたいから、ここに書き記しておこうと思った。

未熟さの痛感は、成長のチャンス。どんと来い、自分の「未熟さ」。

では、お読みいただきありがとうございました。

読み返してみて

この文章は過去のブログにて公開したもので、書いたのは7年前。
今でも未熟さを感じることはいくらでもあるし、きっとこれからも未熟さを感じ続けると思う。
で、今は「どんと来い、自分の「未熟さ」」って気持ちはあまりなく、どんと来いとは思っていないけども、未熟やねんからそのぶん調べたり、人に聞いたり、他の人に話してみたりできることが多くなった。
自分で考えることも必要やけど、じゃんじゃん聞いてみよう、話してみようと思うようになった。

未熟さの痛感は成長のチャンスという考え方は、未熟さは乗り越えていくもんだ、というニュアンスがなくもない。
もちろん、成長の糧とすることが大事ではあるけれども、ことによっては自分の未熟さを受け入れ、他の人の手をかりながら進んでいった方がいい結果につながることは多々あると思う。
そういう視点を得ることができていることは、いいことだなと感じる。

では、お読みいただきありがとうございました。