自分で書いた記事・R-styleの記事ではっきり覚えているもの WRM「今週のQ」

倉下忠憲のWRM 「読む・書く・考えるの探求」第546号、ラディカルなRashitaのスタイルの変容の「今週のQ」での問いかけです。


ふと考えてみて、すぐに思いつくのは。「数学からぼくが学んだこと」と題しての連載です。

この4つのエントリで、自分が思う数学の良さや数学との向き合い方をけっこう伝えることができたのではないかと感じるくらいに、かなり力を入れた、じっくりと書き上げた記事となりました。

他には、

もとても思い入れの強い記事です。

は、かなり前に書いたものを、他の人が6年越しにツイートしてくれて、ふと目に飛び込んできて読み返して少しだけ修正を加えて新たにポストしたもの。

自分で書いた記事ではっきり覚えているものはこれらの記事かな、と思います。
どれも、数学に関して書いたもの。
数学についてどんどんブログで書きたい、と思っているものの、なかなかにそれができておらず、でもなんとかしっかりまとめ切れたという感覚があるからこそ、これらの記事はかなりはっきりと覚えているのだろうな、と思います。


R-styleの記事ではっきり覚えているのは、個人の書くブログの楽しさを教えてくれた

から始まる、一連の連載。
R-styleで展開される、Evernoteというツール越しに見る知的生産についての話が、すごく面白く、興味深く、ブログというのは面白いんだなーと思うようになったきっかけの記事となります。
で、そこから自分もブログを書きたい、となって実際に更新を始めるまでさほど時間はかかりませんでした。で、今もまた更新している、とうわけです。

他には、今ふと思い出したのが、

という、4月1日に書かれた記事。もう11年前になるんですね。
なぜこの記事が記憶に残っているかというと、

という本が、後に発売されることとなるからです。
書評 クラウド時代の知的生産の技術(倉下忠憲)が書かれたのは、倉下さんが物書きになる前、『Evernote「超」仕事術』の発売される前だったと思います。まだ本を1冊も世に出していない状況で、自分が本を出した体で記事がかかれているのがこの記事。
やがてコンビニの店長から物書きにジョブチェンジされて、『Evernote「超」仕事術』が発売され、『Evernote「超」知的生産術』がその後に続きます。
そして、『Evernoteとアナログノートによる ハイブリッド発想術』が発売され、その告知エントリが書かれて。
「ついに!!」と感動・興奮した記憶があるので、とても記憶に残っているのだと思います。

他にも、

は、よく覚えている記事の一つ。R-styleにて倉下さんの書く記事に触発されて自分も記事を書いたりしますが、やはりそういう触発を生んでくれた記事は覚えているものが多いように感じます。


自分のブログとR-styleの記事の中から覚えているものをあげてみました。
記憶力に自信がないく、基本的に忘れっぽい自分でも覚えている記事たちは、自分の中に色濃く残っているものたち、ということになると思います。
そういう記事をもっと書いていけたらなぁと思わなくもありませんが、ぼちぼちと日々書き続けるのを楽しくやってるので、まずは楽しむことを第一に今後も書き続けたいと思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

教え手は”今の自分”を基準にしてはいけない

どんな職業・立場であれ、「これはこうするんだよ」であったり、「こういうことだよ」と伝えたり教えたりすることってあると思います。で、そんなときに「言うたのになんでわからへんねん」「さっきのん全然伝わってなかったんかいな」って感じたことってありませんか?
この状況の原因は、一概には教え手/学び手、あるいは伝え手/受け手のどちらが悪いとは言い切れません。教え手は、ちゃんと説明したのにわかってくれないと、学び手を責めがちになったりしますが、ちょっと立ち止まって考えてみて欲しいと思うんです。

”今の自分”を基準に物を言っていないか?

ぼくは、基本的には数学の教え手です。数学については、今までいっぱい学んできましたし、これからもたくさん学んでいくことでしょう。学ぶことは、自分お知識や経験が増えていくため、良いことではありますが、その反面、学べば学ぶほど”学び始め”からは遠ざかってしまいます。
教え手であるぼくが数学を教えるのは、”学び始め”である学び手のみんな。
この時点では、教え手と学び手の知識や理解、経験が違うので、言わば距離が離れた状態。もしぼくが今の自分を基準にうんじゃかんじゃ話したとしても、学び始めの学び手にはほとんど伝わらないという、不測の事態に陥ってしまうでしょう。
当たり前のことですが、当たり前すぎて忘れ去られていることでもあります。人は、当たり前なことほど意識外に放り出してしまうものなので。

距離を縮めることを、常に意識する

教え手と学び手の距離を縮めようとする意識は、常に持っておきたいものです。もちろん教え手が。学び手に「教え手に合わせて話をしなさい。教え手と同じレベルで理解をしなさい」と言っても、到底無理なので。
学び手には、知識の量・理解の度合いには限界があり、教え手との距離を縮めたくても現状どうすることもできません。教え手が学び手に歩み寄り、距離を縮める。そのためには、学び手側の今の知識量・理解の度合いをイメージする必要があります。そのイメージの元となるのは、過去の学び始めの頃の自分であったり、他の違う学び手に教えた時の経験であったりします。
また、質問の内容は、丁寧に確認することも求められます。教え手と学び手は知識や理解に差があるわけですから、学びてからの質問の内容を教え手が間違って把握する、なんてことはよくあること。それでは距離は縮まりようがない。
距離を縮めるために、学び手の今の状況をできるだけつかみ、イメージする。そういったことが大切であるように感じます。

おわりに

「なんだか伝わらないなぁ」と感じたら、学び手との距離が離れていないか?に目をむけるのもいいのではないでしょうか。伝わらない原因は1つではないにしろ、距離が離れてしまっているというのは大きな原因の1つになり得ます。

今回書かせてもらったことは、職業柄、教え手になることがほとんどの自分が意識したいことです。教え手という立場ばかりにいてしまうと、忘れてしまいがちなことなので。人は、当たり前なことほど意識外に放り出してしまうものです。この当たり前のことを意識外に放り出してしまわないためにも、こうして思い返し、考えることは有効かなとおもいます。

理解しちゃっていても、まだ理解に至らずうんうんと頭を悩ませる状態をイメージすることはできるはず。

では、お読みいただきありがとうございました。

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過去の自分と今の自分の共同執筆

前回の記事、「概念の拡張と日常への適用」は、実は6年ほど前に書いた記事をリライトしたもの。
たまたまTwitterで自分の過去ブログの記事をツイートしてくれているものを発見し、どんな内容か気になって読み返したのが発端。

読み返しての感想は、「昔の自分、めっちゃいいもん書いてるやん」。
単なる自画自賛に過ぎないけど、読むことができて良かったーと感じる出来栄えだった。
と同時に、こういう記事が過去のブログにはけっこうたくさん埋もれてしまっているのかも、ということも感じた。
ぼくは、「はてなダイアリー」でブログ「 iPhoneと本と数学となんやかんやと」を開設し、6年ほどそこで書き続けた。で、4年前からWordpressに移行し、今に至っている。
Wordpressに移行するときに、過去記事を全て移すということをしなかった。
記憶の中にあった、印象深い数記事を移すだけに留めた。
今回の「概念の拡張と日常への適用」は、その印象深い数記事には含まれていなかった。だからWordpressのブログに移したいという思いが湧き、リライトして載せることにした。
こういう、印象には残っていなかったけど読み返してみると「えぇなぁ」と感じる記事は、放置されてそのままになっている。

自分のブログを読み返して感じることは、「けっこうえぇこと書いてるやん。書いたことぜんっぜん覚えてないけど」といったもの。
ほんとにきれいさっぱり忘れている。
今回のように、自分の過去記事に、大切なこと(大切に思っていたけど忘れていたこと)を教えてもらうことも多い。
その一方で、書き換えたくなる部分もある。修正すればより良くなるのでは、と。

旧ブログから今のブログに移行したのは4年前。
旧ブログは、約6年間分の過去記事が、そのままになっている。
旧ブログから学ぶことがある。
旧ブログの内容を多少良くできるのでは、と感じる部分もある。

ということで、これはもっと過去記事を読み返して、多少の修正を加えて改めて新規エントリとして更新するのも、なかなかにありではないか、と思えてきた。
過去に書いたものを読んで感じるのが、「大切に思っていたけど忘れていたことがある」ということ。けっこうあるな、と感じること。
今回のように、過去記事のリライト記事を、ちょっとずつでもいいから更新していければな、と思う。

仕事を進める上でなくてはならない道具7選

ぼくは、高校で教員をしています。
教師の仕事は、ただ教科を教えればいいってものではなく、他にも色々とやることが結構わんさかあります。
それらをこなしていこうと思うと、道具の力を借りなくては、にっちもさっちもいかなくなります。ぼくの場合。
仕事に就くちょっと前に「ライフハック」という言葉を知り、そこで色々と自分なりに調べては試し、タスク管理をし始めることができたことは、今思えば、自分にとってはかなりの財産になってくれているな、と感じます。

仕事に就いてはや10年。これまで仕事をなんとかこなしてこれたかな、と思っているのですが、その時々でタスク管理を試行錯誤し、それなりに自分にあった手法を見出してきました。
おそらくこれからもやり方や使う道具は変わっていくとは思いますが、今現在使っている、仕事を進める上でなくてはならない道具を紹介していこうと思います。

  • Mac
    • Obsidian
  • iPhone
    • 1writer
  • iPad
    • iPad+Apple Pencil
    • Noteshelf
    • Keynote
  • Hand Writing
    • JETSTREAM
    • pocket size memocho

Obsidian

まずは、Obsidianにて連用手帳をしているので、Obsidianは欠かせません。今はかなりお世話になっています。
仕事中は基本的にはデイリーページを開きっぱなしにし、そこに書き出されているタスクを一つ一つ消化しながら、何かあればメモをする、という日々を過ごしています。

1Writer

ObsidianはiPhoneでは使えないので、代わりに1Writerを使っています。
iPhoneではショートカットと 1Writerを用いて、Obsidianのデイリーページへ一発アクセスできるようにしてあり、デイリーページに何かしら書き込みたければ1Writerを使う、という使い方です。

iPad+Apple Pencil

iPad+Apple Pencilは、仕事では欠かせない存在となりました。

板書計画をたて、それをそのまま授業に使うことができる。
配置も自由に決めることができ、書き直しが容易であること。書いてから配置を変えることができるのは、考える際にとてもありがたい。

NoteShelf

今は書き心地と機能を考えて、NoteShelfを使っています。

書き心地がなかなかよく、機能も充実している。また、書いたものをコピーし、他のアプリに受け渡すことが簡単で、そういった細かい部分も気に入って使っています。

Keynote

iPadアプリでもう一つ欠かせないのが、Keynote。
授業をする際に、よく電子黒板を利用してあらかじめ用意してあった板書内容を生徒に提示するのですが、その際はKeynoteを使っています。
また、数学の問題の解説動画を作ったりするときには、Keynoteの手書きによる注釈と画面録画を利用しています。
なので、なかなかにお世話になっているアプリです。

JETSTREAM

文房具が好きで、特に紙質とペンの書き心地にはこだわるほうだと自分では思っています。
なので、ボールペンであればJETSTREAMの書き心地は欠かせない。
ストレスなく、ぬるぬると紙の上を線が滑っていってくれるあの感覚は、とても心地いいものです。

pocket size memocho

最後は、ポケットサイズのメモ帳。
基本的にはiPhoneを取り出してメモをするのですが、それがはばかられる時やiPhoneを持ち歩いていない時はメモ帳にメモし、後でObsidianに転記したりそのまま使い終われば破棄したり。
メモ帳とJETSTREAMのタッグは、今回の道具の中では一番の古参で、長いことお世話になっています。


思い返せば、メモ帳を常に持ち歩く、というのも、仕事に就くちょっと前からやり始めたことでした。
ライフハックというものを知り、学び、試してみたこと。
メモ帳を常に持ち歩き、メモをするという行為を自分のものにできたこと。
そして、同じ時期にiPhoneを使い始めたこと。
これらは間違いなく、ぼくに大きな転換をもたらしてくれました。
どれもが、10年経ってもいまだに活躍してくれているので、これからも大切にしていきたいと思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

「うちあわせCast」を聞いて考えた、「学校」についてのこと

うちあわせCastを聞きました。

「自分の道具を作る」について。
その中で触れられていたのは、本を読んで、それを盲信的に信じたり、それが唯一の正解やと捉えて、自分のやり方があっているのかどうか確かめたい人がおるけど、それってどうなんだろうか、という話が印象的でした。
それに続いて、日本の教育について言及されていました。実際に教育現場にいる身としては、色々と考えさせられますし、自分なりの意見なんかも持ち合わせているわけで。
今日はそれについて書きます。

学校教育は、正解するか否か、に重きを置かれているため、正解かどうか、を気にする人に育ててしまう。
だから、自分で作る、という発想にならず、正解を求めてしまう。

そのような意図のことが話されていたと思います。
それに対してぼくは、このように思いました。

  • 学校で教わるのは、「基本のき」みたいなこと。考えるにしても、基礎的なことを知らないと考えようがない。作りようがない。その部分を教える役割を担うのが、学校ではないかな、と。
    • いきなり「自分の道具を自分で作ってみよう」「自分なりに考えてみよう」と言われても、それがたとえ答えが1つに定まらないことであって、自由に考えていいとしても、やはり考えるための前提となる知識や技能がなければ、難しい。
  • 「基本のき」を学ぶ際には、正解かどうかがやはり大事。
    • その基本を土台とすることになるので。

また、普段学校で(ぼくが赴任している学校は、学力的にはかなりしんどい、いわゆる困難校といわれるところ)教えていて、よく感じること。

  • 教えていて感じるのは、「じゃあ考えてみよう!」と威勢よく言ったとしても、そもそも考えるための知識や技能がないと考えることができない、ということ。
    • 正負の数の計算もおぼつかない状態なのに、因数分解にて「足して−1、かけて−6になる2つの数は?」と聞いても、なかなか厳しいものがあるように。

なので、結論的にこう感じました。

  • 「考える」をするための前提知識を教える場。
  • 「作る」をするための基本技術を伝える場。
  • それが、学校教育で果たすべきことではないかな、と。
  • 受験が第一に考えられがちやけど、ほんまはそれを第一義にしてしまうのは、やっぱりよろしくない。それこそ、正解を求めてしまうことにつながりかねない。

この考えは、赴任している学校によって大きく違ってくるように思います。小中高でももちろん違ってくるという前提のもとでの、結論です。

とはいえ、学校で何かを教えるとなると、確かに「正解」を求めるような場面設定がほとんどになってしまっているのも事実です。
生きていて、正解が明確に決まることなんてほとんどないのに。
その点で、学校という場所は、かなり特殊な場所である、と言えそうです。
ということもあり、

  • 学校という現場で「これがいい」とされていることは、積極的に壊していったらいいのではないか。

という思いが強くなりました。

  • 学校という場におると、そこでのことが当たり前になってしまう。当たり前になると、疑いの目を向けなくなり、社会においても同じ目線で見てしまう。
  • でもやはり、学校というところは特殊である。
  • なら、学校という現場で是と思われていることは、往々にして社会においては非であるかもしれない。
  • そういう認識でいることや、学校という場で盲目的に是と捉えられていることは、積極的に崩していくべきではないか、と。
  • 当たり前と思われていることほど、「ほんとうにそうなのか?」を問うていくべきではないか。
  • だからぼくは、学校において、できるだけ「こうすべき」と言われていることに対して、別のことをやっていきたいな、当たり前になっていることに対して、「ほんとうににそうか?」を問うていきたい。

このあたりが、ポッドキャストを聞いて考えたことをその日のうちにだーっと書き出しておいたものになります。
読み返しながらこのブログを書いているわけですが、聞いている時は、もっといろいろなことが頭の中を駆け巡ったように思います。
とても思考を刺激してもらいましたし、ポッドキャストのお二人の話がとてもおもしろい(毎回とてもおもしろい)ので、興味ありましたらお聞きになることをオススメします。

では、お読みいただきありがとうございました。

2021年現在の、日々の記録あれこれの利用の仕方

2021年現在の、日々の記録あれこれにて、現在どういったものを日々の記録として残していっているのかについて述べました。今回は、その残しているものをどうしているのか、についてです。


デイリーページ

日々「デイリーページ」をObsidian上に作成し、そのページを開きっぱなしにして日中過ごして何かあれば書き込んだり、タスクを書き出してそれに倣って行動しているのですが、そのデイリーページのログは、来年の同じ日付の日に見返されることになります。
「連用手帳」という形式をとっており、日々のデイリーページには1年前・2年前の同じ日付の日を埋め込んでおり、プレビューによって毎日見返しているからです(Obsidianにて連用手帳)。
1年や2年前はまだObsidianを使っていませんでしたが、Scrapboxにてデイリーページを作成して過ごしていた時期があるので、それをObsidianにインポートし、毎日見返しています。
なので、今日かいたページは、確実に1年後、見返すこととなります。
去年や一昨年の1日を見返し、今日を過ごす参考にする、という感じです。あるいは、そこに書かれているメモを読み返し、何かしら書き加えたくなることもあったり、です。

たすくまの記録

Obsidian以外に、「たすくま」にて行動を記録していますが、こちらはほぼ見返されません。
ごくごくたまーに、「あの日は何をしていたのだ?」ということを知りたくなることがあるので、そういう時には過去の記録を振り返りますが、その程度。
デイリーページのように確実に見返されることが決まっている、というわけではなく、ごくごくたまーに特定の日の記録を見返すだけです。

日記

日記はEvernoteに連用日記を書いていっており、デイリーページと同様、今日かいた日記は来年の同じ日に見返されることになります。
2015年から書き加え続けているので、今は毎日過去5年分の日記を見返しています。
日記は読み返すだけで楽しいですし、結構「あぁこの時期にこれをやってるんか」と、今年を過ごす上で参考になることも多い。
それもあって、手帳も連用形式にしよう、となったわけですが。
まぁでも、日記は読み返すだけで面白いので、書くのは多少面倒に思いつつも、毎日欠かさず書き続けています。

個別にページを与えてログを取っているものたち

自分の好きなものに関しては個別にページを与え、記録をとっていってるわけですが、これらはあまり見返しません。
お酒の記録であれば、時々「これって飲んだことあるっけ?」と検索をかけてみたり、映画の記録は友達と面白かった映画を共有するときに振り返ってみるくらい。
コーヒー豆焙煎の記録は、同じ豆を焙煎するときに少し振り返り、次の焙煎はどうするか考えるときに。
読んだ本や読書メモも、とってはいるもののさほど見返すことはありません。以前は読んだ本についてブログで書いたりするときに読み返していましたが、今はそれがやりたいのになかなかできていないという現状です。


デイリーページと日記は、1年をサイクルとして必ず見返します。
そのほかはたまに検索をかけて見返したり、といったところでしょうか。

ぼくというものはどうやら「定期的に見返すぞ」と思っても確実にちゃんと見返してはくれないようなので、連用形式で1年後勝手に目に入るようにしています。
意図的に見返して使っていきたいものに関しては、勝手に目に入るような状況を作り出し、活用している、という感じです。

では、お読みいただきありがとうございました。

「黒板の前に立ち全体に向かって講義する形」ではない授業を試す

ぼくは、高校で数学を教えています。
赴任している学校が「学びなおし」の学校でして。
小中学校で学んだことを1年間でどう復習し、高校数学につなげるか〜新しい授業の形について考える①〜でも触れましたが、学びなおしということで、勉強を苦手としてきた生徒がけっこういます。そこで、毎日30分間、小中学校で学んだことを復習するという授業形態(モジュール授業)をとっており、国数英に関しては毎日授業があります。その授業も他と同様、基本的には前で教員が解説する講義形式で授業しているのですが、やり始めたときから全く違ったものにしたい、と考えていました。

数学がすごく苦手な生徒もおり、これまでの経験から、学ぶ意欲が失われているのでは?と感じる生徒もいます。
モジュール授業では、2クラスを習熟度によって3つのグループに分けており、ぼくはその中で一番数学が苦手な生徒が集まるのクラスを担当しています。
小学校2、3年生あたりの内容でも正確に解くことができなかったり、小数の計算になるとクラスの半分は正解に至ることができず、分数ではさらに3分の2は足し算・引き算ができない、というような感じです。
その生徒たちに、集団講義という形、前で教師が生徒とやりとりしながら解説していく形で、小中の内容を1年間で復習するわけです。が、どう考えてもそれでは生徒が計算を身に付けることができるようには思えないわけです。
そこまで数学が苦手であれば、おそらくは小学校の頃から何らかのつまづきをしているはずです。小学校の授業形態は、基本的には集団抗議の形になるでしょう。もちろん、生徒同士のやりとりや1つの単元にかける時間数は、モジュール授業よりも多いはずです。そこで、何らかのつまづきがあった生徒が、今、モジュール授業を受けている、と考えていいと思います。
そんな生徒相手に、相変わらず集団講義の形式で授業をするのは、しかも小中学校の時代よりも短い時間で多くの内容をこなしていくのは、どう考えても生徒の力を伸ばす結果にはならない、と思うわけです。

  • 小中学校の頃よりも短い時間で進んでいかないといけない。
  • そのため、小中学校でやっている授業よりも一つ一つの内容をじっくりやっていくことができない。
  • モジュール授業の相手は、小中の授業を受けても十分に理解できず、どこかでつまずき、取り残されてしまった生徒達。
  • であるにもかかわらず、小中学校の授業と同じように、教師一人が、生徒多勢に黒板を用いて授業する形態をとっている。

そんな中で数学の力を、基礎的な部分を伸ばすことができる生徒は、ほんのほんの一握りでしょう。もしかしたら、一人もいないかも。
そう感じていたため、集団講義の形式での授業をするのはもうやめにしないか、と常々思っていました。

今年度の授業があとわずかとなり、試しに教師が黒板の前に立ち全体に向かって講義する形ではない授業を試すことにしました。定期考査対策のプリントを配り、その解説動画を見て、自分のペースで勉強を進める形を。
わからない部分があれば、これまでに書いたノートを見返し、見ながら解いてみる。それでもわからなければ、プリント上に印刷されているQRコードをスマホで読み取り、動画を見て学ぶ。それでもわからないところは、教員が個別に対応する。そんな授業です。
1回目の授業は、物珍しさもあってかとても手応えのあるものでした。
いつもは私語が目立つ生徒や、わからないからとすぐに顔を伏せてしまう生徒が、熱心に動画を見ながらプリントに取り組んでいたんです。
みんな見慣れているので、操作もお手の物。わからないところは一時停止し、ときには巻き戻してもう一度見返したりしながら集中してくれていました。
「このほうがいい」という生徒の声も聞け、とても収穫のある授業となりました。
もちろん、問題点はたくさんあります。
関係のない動画を見るかもしれないですし、スマホが使えてしまうとメールやSNSなどに気を取られてしまう恐れがある、教員1人が個別に対応できる人数には限界がある、などなど。
とはいえ、それらの問題点を解消する策はありそうですし、効果的にこの授業の形を取り入れることはできる、という感触を得ることができました。かなり大きい収穫だと感じています。

次年度は、講義形式と動画を用いての授業を、どう効果的に織り交ぜていくか、が焦点になってきそうです。

では、お読みいただきありがとうございました。

小説読みたい欲を満たしてくれる「オーディオブック」

本を読むことが好きです。
思い返せば、高校生の頃、小説に、ミステリにハマって以来、ずーっと本を読むことが好きです。今では人生の中でも本を読む時間はけっこう大切にしたい時間になっています。
高校生からガッツリハマり出し、大学の3回生くらいまではずーっと小説ばっか読んでました。
数々の伏線が見事に回収されていき、最終的には驚きの結末に至る。そんなミステリに魅了されていました。
大学の3回生からは、ビジネス書・実用書もよく読むようになりました。やがて比重が少しずつ小説からビジネス書に移っていき、働き始めた頃にはほとんど小説を読まなくなりました。

思い出話はこれくらいにして、何の話をしたいかというと、「オーディオブック」の話をぼくはしたいのです。


働き始め、やがて家庭を持ち、子どもが生まれ。それにともない、読書の時間は減っていきました。
もっと読みたい。でもなかなか思うように本に向かうことができないという思いから、オーディオブックを聴き始めます。
これが良くて。
移動中や家で洗濯物を干している時間など、耳で聞いて本を読む、ということが身についていきました。
ただ、色々なオーディオブックを聴く中で、あることに気づきます。
本によっては、全然頭に入ってこないものがある、ということに。

もちろんどのオーディオブックもしっかり聴くつもりで聴き始めるわけですが、気づいたら本と関係のないことを頭は考え始め、耳から音は入ってきているのに頭で考えていることに負けてしまい、見事にまるっと聴いてなかったりする。
どの本を聴いていてもそうなってしまう時が多少はあったりしますし、本によっては聞くたびに他のことを考え始めるものもあったり。
そうなると、本の内容が全然頭に入ってこなくなってしまいます。
ただ唯一例外がありまして、いつも集中して聴くことができるものが存在するんです。
それは、小説や、ストーリー仕立てのもの。
かなり入り込むことができます。別のことを考えてただ流すだけになってしまう、ことなんてまったくありません。

audiobook.jp」でオーディオブックを買っているのですが、基本的に実用書系は1人の方の朗読が続きます。一方で、小説やストーリー仕立てのものは登場人物ごとに何人もの声優さんがその役を演じており、それも入り込むことができる一つの要因かもしれません。
なので、ある時を境に、オーディオブックでは主に小説を狙って読むようになりました。

元来小説が、特にミステリが大好きで、今はほとんど読んでいないものの、やはりすごく読みたい気持ちは強いんです。ただ、小説はどうしても続きが気になってきて、それを我慢できない。読み始めるとまず間違いなく寝る時間を削って読みふけってしまうことになってしまう。なので、読まないようにしているものの。
でも、やっぱり読みたい。読みたいなーって気持ちはずーっとある。絶えずある。
そんなぼくの、小説読みたい欲を満たしてくれているのが、オーディオブックというわけです。

オーディオブックで小説の世界に浸るのも、なかなか素晴らしい読書体験です。

では、お読みいただきありがとうございました。

書いたものの仕上がりに満足できるようなペースで更新する

11月からブログを再開し、2ヶ月が経ちました。
一昨年から去年にかけては毎日更新をしていましたが、数ヶ月続けることができたものの、途絶えてしまい。そこから1〜2ヶ月に1回更新するくらいの頻度にまで落ち込んでしまいました。
で、11月からは更新頻度を週2回と定め、書き続けています。
こんくらいがちょうどえぇわぁ、と言う感じです。

毎日更新のときは、やはりなかなかに無理してました。
それなりにちゃんとしたものを、との思いで書いてたので、そうなるとまずまず時間がかかるわけで。けっこう無理やり時間を捻出して書く、という感じだったように思います。
その無理からかわかりませんが、毎日更新が途絶えてしまうととたんに書かなくなり。時間の確保を放棄してしまったので、途絶えた後には記事が続かず。

今は週2回の更新です。火曜と金曜。
2回の更新とはいえ、書く時間は毎日確保しています。だいたい10分〜20分ほどでしょうか。
新たなエントリを書き始めるときには、何書こうかなぁなんてのんびり考え、思いついたことを書き出していき。
すると、だいたい何かしら書きたいことが見つかる。
で、それについて2
3日かけて本文を完成させていく、という形でやっています。
毎回ちゃんと書くことが見つかるので、けっこう自信がついてきたのか、とりあえず書き始めたら書けるさ、という心持ちで更新を続けることができています。

更新まで3
4日あるので、書く内容が定まればたいていは急がずに書き切ることができます。ときには2日ほどで本文が仕上がり、残りの2日を推敲に使える、なんてときも。
自分として満足のいく仕上がりにできることが多く、やはりそのほうが楽しく書けますね。

週2回更新と定めていますが、実は「更新できたらいいな」くらいのゆるーい目標でしかなくて。
ゆるすぎたからか、前回のエントリは、早く書き上がったと同時に思わず更新ボタンを押してしまい、火曜に更新する予定のものを日曜に公開してしまいました。逆に早く上げすぎたパターンです。
順調に書き進めることができているわけですが、もしかしたら今後更新できない日がくるかも。まぁでも、更新できなかったとしても気にせずに、次の更新日までに書いて公開できればいいかな、というようなゆるさを維持していこうと思っています。
きっと、またやりたくなるときはくるし、こなかっても別にたいしたことはない。
たとえ途絶えても、そのうちまた書き始めると思うので、更新が途絶えちゃってもいいや、という感じで。

今の書き進めかたがとてもいい感じなので、しばらくは週2回の更新ペースでやっていってみようと思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

楽しそうなところに加わりたくて

楽しいことを書いていくのです。あるいはブログを愉しむのです。何をすれば楽しくないのかは、一週目でさまざまに経験したでしょうから、その判断はきっとやりやすいかと思います。

皆さんは、どのように考えられるでしょうか。

気がつけば、ブログを10年以上書き続けてきました。
正確には書き続けたというか、途中幾度となく更新が途切れながらも、でもやはりブログを書くことを再開し、、、ということを繰り返しています。

「何をすれば楽しくないのかは、一周目でさまざまに経験したでしょうから」とあります。
自分はどうだろう?と考えてみました。

ぼくがブログを書き始めようと思ったきっかけになったブログがいくつかあります。
その一つが、「R-style」の存在です。
今も「R-style」というブログ名の横にたたずむ「Sharing is Power!」の文字。
その一言は、「ブログを始めてみたいな、どうしようかな」と迷うぼくの背中を、強く強く押してくれました。

10年前のことですし、記憶は正確ではないかもしれませんが、そのころ、まだ自分がブログを始めていなかったころに読んでいた、RSSに登録していたブログの多くが、とても面白かったことを強烈に覚えています。
毎日それらを読むのを楽しみにしていました。
「そこに加わりたい!」と思うのには時間はかかりませんでした。
おもしろいと感じることを書きあう、楽しそうな世界に。

ぼくのブログのはじまりがそこなのです。
他のことを求めたことはありません。
楽しくないことをしていないので、一周まわってなんていなくて、フラフラしながらも、ときには停止しながらも、同じ方向にずっと進んでいけている感があります。
それはやっぱり、ブログを書くきっかけを与えてくれたブログが、楽しそうだったからなんだと思っています。

儲けるため、成功するためにブログをかくのではない、と。

立派なことだったと思いますし、倫理的に正しいことだったとも思います。

一方で、その高貴な思いは必要以上に削りすぎてしまったのかもしれません。ブログにまつわる、雑多な楽しみを。

幸い、高貴な思いもあまり抱いたことはなく。
それは、ぼくが好んで読んでいるブログは、変に盛り上がったり煽り立てるでもなく、とても面白いものを、でもきっと広くは読まれないだろうなぁと感じることを、広く読まれることはないと分かりながらも淡々と書き続けていることに影響を受けているのだと思います。
淡々と、自分の興味・関心を書いてシェアすれば、それをおもしろいと感じる人はきっといる。だって自分は、そういうものに強く心惹かれるのだから。
そう思えているからこそ、今まで高貴な思いを抱くことなく、楽しみを削ることなく、だからブログを続けることができているのだと思います。

実は実利ではなかったのかもしれません。謳われていた「実利」は、飲み会の口実のようなものであって、実際は「やりとり」とそこから形成される「つながり」こそが人を呼び寄せていたのかもしれません。

ぼくがブログを書き続けることができているのは、好きなブログがあるからこそ、ということです。
これはもう、感謝するしかありません。
ありがとうございます。

そして、ぼくのブログも、誰かにとってのそんな役割になっていてくれたらな、と願うばかりです。

ぼくはそんな風なことを考えました。