紙の本を買うことと、ブログを書いて残すこととの共通点

電子書籍を買うことがかなり多くなってきていて、50%にまで増えてきました。
でも、電子書籍で読んでよかった本は、紙でも書い直すようにしています。

最近、せっせとブログを更新しています。
いくつかのきっかけが重なり、積極的に更新していこうと決意したのですが、理由の1つが「書いて残しておきたい」というもの。
自分が考えたことやいいと思ったこと、伝えたいなと感じたことを書き残しておくことで、いつか読まれる時がくるかもしれない。書かなければ読まれることは絶対ないので、じゃあ書くしかないな、と思ったから。


子どもの可能性の邪魔だけはしたくない。
我が子をみていると、そういう思いを強く抱きます。

人間は生きているなかで、意識的にも無意識的にも、たくさんのことを経験し、吸収していきます。
たくさんの、ほんとうにたくさんの経験の蓄積が、今の自分を作っていると思うのです。
いくら柔軟に生きていたいと願っても、たくさんの吸収によって、いくぶんか塗り固めらる感は否めません。

まだ生まれて数年の子どもを見ていると、塗り固まった部分が、まだまだほんとにちょびっとしかない。
固まっていないぶん、なんにでもなれそうな気がするんです。

そんな子どもに対し、何ができるのか。何もしないほうがいいのではないか、とさえ思えてしまう。
けど、少なくとも今まで生きてきたなかで自分がいいと思ったことや、大切にしていること、素晴らしいなぁと感激したことは、押し付けがましくならない程度に、子どもがすぐに触れられるところには置いておきたい。
書き残しておきたい。

だから本は、電子書籍で読んだものも紙で買い直して棚にたてておこうと思いました。
読むかどうかはわかりませんし、こちらから読んでねと言うつもりもありませんが、興味を持ったらすぐ手を伸ばしてもらえるように。
本を読んできて、すごくよかったなという思いしかないから。

だからブログを書いて、いろいろと書き残しておこうと思いました。
読むかどうかはわかりませんし、こちらから読んでねと言うつもりもありませんが、もしかしたら読んでくれるかもしれないから。そこからなにか考えたり感じたり、学んだりしてくれるかもしれないから。
なにより、ブログを書いてからきて、すごくよかったなという思いしかないから。


できれば数学についてもいろいろと書き残して、押し付けがましくない程度に伝えられることを伝えていきたいな、と思っています。
ただ、子どもが足し算なんかをしていると、ついつい身を乗り出してしまうのですが。

では、お読みいただきありがとうございました。

更新作業を楽にすることが、ブログ更新のキモなのかも

最近せっせと更新しているブログ、ほとんどがiPhoneで一気に書いています。書く内容を選び、そっからダァーっとフリック入力。
その際、使っているアプリが、Textwell
iPhoneでメモや文章を書くときは必ず使っていて、このアプリを起点とすることで何かしら思いついたときに迷わずサッとメモすることができるようにしています。
しかも、書いたテキストを加工するのにも秀でた能力を発揮してくれるので、望みの形式に変換することもできるのが素晴らしい。
さらにはその加工したテキストをショートカットアプリにも受け渡せるので、けっこうなんでもできてしまう。

実際、文章を書いてそれを加工してwordpressに投稿する、という流れを作ることができて、以前よりもだいーぶ簡単にブログが更新できるようになりました。
で、それが、このところの毎日更新を強力に後押ししてくれています。

いちいち手間取ることをしたくはないんです。書いて、ブログを投稿する、というのをできるだけ簡略化することで、更新に対するハードルは確実にさがってくれます。
ブログの文章をかくのはそんなに苦ではなく、まずまず楽しめる。でも、書いてから更新するまでにすごく手間がかかってしまうと、書いてからの面倒くささが頭をよぎり、書かなくなってしまう。
すごく楽に手間なくブログを更新できるようになって、ボトルネックは「書くこと」ではなく、「書いたものを投稿すること」だったことに気がつくことができました。

おわりに

  • Textwellでmarkdownを利用し、文章を書く
    • HTML形式に変換する
    • wordpressに投稿するショートカットを起動し、カテゴリやタグを選ぶ
    • 更新!

実際はもう少し手間を加えていますが、大まかな流れはこんな感じ。
文章を書くことができれば、あとはポチポチと画面をタップしていくだけで更新までこぎつけることができます。
ブログは、書けないから更新できないのではなく、書いてからが手間だから更新できなかった。
手間だったところが省けたので、これからもどんどん書いて更新していきたいと思います。

では、お読みいただきありがとうございました。

これからは、積極的にブログを書くつもりでいます。ブログには感謝感謝です。

3日前から、ブログの更新を再開している。
1つ1つのエントリは、短い。サクッと書いて、えいやっと投稿してるので、こんなんでいいのかなぁ?という気持ちが、ないわけじゃない。
でも、書かないよりも書いた方がいいやろうってのを盾に、サクッと書いている。
毎日なにかしら書くことはある。考えてることとか、本読んで感じたこととか、誰かと話してて気づいたこととか、なんとか、かんとか。
そういうのんを、今までは全然書いてこなかった。
ちゃんとまとまってから書こうと思うあまり、ブログを更新できてなかった。
更新できてないと、ブログを書くための時間をとることも疎かになり、よけい更新できず、、、だった。

書くことで下がるハードル

ちょっと毎日更新をしていきたいな、と考え、試しにえいやっと、サクッと書いたものを投稿してみた。
一度更新するだけで、更新に対するハードルはかんなり下がり、結果、今のところ毎日更新できてる。まだ4日やけど。
でも、更新へのハードルを下げることができたのは、だいぶでかい、と思う。そう思いたい。
毎日更新するなんて、ブログを始めて書き慣れてきたころ以来やけれども、ちょっとまた続けていきたいと思う。
日頃考えてることについてや、読んでいる本から感じたことや、他の人の話から思ったことなんかを。
些細なことでもいい。
時間がない時もあるやろうけれども、そんなときでもその日書けることを書いていきたい。

書く、と決意すること

些細なことでもいいってルールにすると、書けることは驚くほど増える。
本については、読み終えてから書く必要はない。その日読んだ部分について書いてもいい。
考えがまとまってなくても、ブログに書きながら考えてもいい。結論が出なくてもいい。
感じたこと、思ったこと、考えたことを、そっくりそのまま提出してしまったっていい。
思考っていうのは、 勝手に広がっていっている。
「なにか書くことあれば書こう」では、その広がる思考から書く内容をうまく捕まえられない。
「なにか書く!」と決め、書くことを決定事項としておけば、あれについても書ける、これについても書ける、というように、思考から書く内容を紡いでいける。
ここ数日、そんなふうに感じた。

おわりに

ブログを書き始めて、気づけばたぶんもう10年ほど経つ。
学生から社会人になり、家庭を持ち、子どもができた。
その中で、ブログを書く目的は変わっていった。環境も目的も変わる中で、ブログを続ける意志は常に持ち続けている。そこだけは、変わっていない。こんなに長く続けることができていて、自分に大きな影響を与えてくれたものって、なかなかない。
ブログを書き始めたきっかけは、もうあまりちゃんとは覚えていない。けどはっきり覚えているのは、先にブログを書いていた人たちがいた、ということ。ぼくはそれを毎日楽しみにして読み、いつしか自分も書きたいと思い、書くという一歩を踏み出すことができた、ということ。
そんなブログに、感謝感謝しかない。そんな魅力的なブログを書かれた方たちに、感謝感謝しかない。
ほんとに、ありがとうございます。これからも、楽しみにしています。

では、お読みいただきありがとうございました。

トップダウン・ボトムアップと、「数学の問題を解く」のと「数学を研究する」の

こちらの記事「R-style » レゴブロック、トップダウンとボトムアップ、破壊された構造に生まれる余白」を読みました。どちらも、ものすごく興味深く、おもしろい。
トップダウンとボトムアップ、それとはちょっと性質の異なる「フローラップ」なるものについて言及されています。「R-style」さんのほうでは、レゴブロックを例えに、その3者(新しい「思考の大きな構造体を組み立てるアプローチ」には名前を与えていませんが)についての考察されており、とてもわかりやすく、詳しく述べられています。
そして、ぼくは以前にこんなことを書きました。
レゴと数学 – iPhoneと本と数学となんやかんやと
レゴと数学には、結構共通点があるんでないか、と思っています。なので、今回記事を読ましてもらって、自然と数学との関連に思考が進んでいきました。

「数学の問題を解く」ときは、ボトムアップとトップダウンを行き来する

ボトムアップと、トップダウン。「数学の問題を解く」ときには、この両者を行き来しているように思います。
「数学の問題を解く」とは、問題文中に書かれている”条件”をもとに、問題文中に提示されている”求めるもの”を求めていく作業です。まずは、その二つをはっきりと意識しなければいけません。

  • 条件を明確にする。
  • 求めるものを明確にする。

”条件”をスタートとして、”求めるもの”というゴールへと向かっていく。でも、決して一直線に”条件”をつなぎ合わせていけば”求めるもの”に辿り着くわけではなく、ときには”求めるもの”に到達する一歩手前を明らかにすることもあります。

  • 求めるものを導くために、条件を扱っていく。
  • 条件の形に、求めるものを少し変形する。

この両方を行き来しながら、求めるものを明らかにしていくことこそ、「数学の問題を解く」ことと言えます。「求めるものを導くために、条件を扱っていく。」のはボトムアップ的ですし、「条件の形に、求めるものを少し変形する。」のはトップダウン的です。つまり、「数学の問題を解く」ときは、ボトムアップとトップダウンを行き来しながら、求めるものを明らかにしていくわけです。
中学校や高校では、普段の授業の理解度を、定期テストという形ではかっています。また、高校入試や大学入試は、試験の点数によって合否が決定されます。ずーっと、「数学の問題を解く」ことを要求され続けるわけです。大学に入ってからも、はじめの1,2年は、線形代数や微分積分学など、どの分野にも関連してくる、基本的な内容を学ぶことになります。すでにある定理や命題の証明をなぞることが多くなります。
つまり、前述した、ボトムアップとトップダウンの行き来を学ぶことがメインになってきます。
でも、この「ボトムアップとトップダウンの行き来」ばかりでは、何か新しいことに行き着くことは難しい。求めること、証明することがあり、条件が提示されてこそ、求めるものと条件を行き来できるのだから。

「数学を研究する」のは、トップダウンでもボトムアップでもないんでないか

「数学を研究する」ときは、ボトムアップともトップダウンとも違ってくる、と思います。
「研究」では、”行き着く先”が明確でないので、トップダウンではないでしょう。トップダウンのトップにあたる部分が、おぼろげながら見えていたとしても、変化するはずです。
”用いる要素”が固定でない、定かではないため、整理分類してまとめあげるという意味でのボトムアップではないでしょう。”用いる要素”進むうちに増えるでしょうし、進むうちに減りもするでしょう。
となると、「研究」は、トップダウンにもボトムアップにも属さない要素が多分にある、ってことになります。
以前、ぼくが学んでいたゼミの先生が、院に進む際、「数学を研究すること」について、円を描いて図で教えてくれました。

円の中身をつめていくことが、大学の学部生までに学んでいく部分。そこから先は、円の外へと踏み出していかないといけないよ、と。
それまで身につけたことを、未知の領域に対して用い、進んでいく。先ははっきりみえなくとも、あれこれ考えながら、試しながら、迷いながら、ときには振り出しに戻ったりもしながら、進んでいく。それをずっとし続けていく。飽きもせず続けていけるからこそ、進んでいけるんでしょう。子どもがレゴブロックで遊ぶかのように。
これまで書いたことは、「数学の研究」ってのをしたことがないので、あくまでもぼくの推測になっちゃいますが。

おわりに

「数学の問題を解く」のと「数学を研究する」は、かなり根っこの部分から違うように思います。その両者には、大きな乖離がある。ぼくはその間を、飛び越えることができる気がまったくしなかったので、研究職につきたいと思ったことはありません。でも、やっぱりあこがれというか、そういう感情は常に持っています。
「数学の問題を解く」のと「数学を研究する」のの間を飛び越えるためのポイントは、ボトムアップとトップダウンではない部分にあるように思います。問題を解くことを目的とするのではなく、自分が納得できるまで、深く理解できるまで、式を変形したり、図を描いたり、試行錯誤しながら学んだかどうか。ボトムアップとトップダウンではない部分を、自分でやりながら学んできたかどうか。
ボトムアップやトップダウンではない部分。ぼくも、授業を考えるときに、大切にしていきたいな、と思います。授業について考えることは、一種の研究であると思うので。
では、お読みいただきありがとうございました。

発見や驚きを伝えたいならば

R-style」の@rashita2さんが発行しておられる、「Weekly R-style Magazine ~プロトタイプ・シンキング~(WRM)」を、最近になってようやく購読しはじめました。WRMのスタート当初からその存在を知っていたのにもかかわらず。もっとはよ購読しとけば良かったな、と多少後悔しております。
そのWRM10月6日号での知的生産エッセイで、「わけのわからないもの」というものがあり、これからいろいろと考えたことについて今日は書いていこうと思います。

説明文では伝えられないもの

「わけのわからないもの」から、少し引用します。

「わけのわからない」ものを相手に伝えたければ、「わけのわからない」ままに手渡すしかありません。
あなたがいた状況に身を置いてもらい、あなたが見聞きしたものを体験してもらう。
ーーー
そうすることではじめて「なるほど、これがわけのわからないことか。たしかにわけがわからない」と伝達することができます。
これが、物語だけが伝えられる_説明文では伝えられない_ものがある、と私が考える理由です。

これを読んだとき、確かにそうやでなぁと、深く納得しました。と同時に、あることを思いました。
「発見や驚きにも共通することじゃないか。」と。

発見・驚きをいかに促すか

ぼくが、数学を教えるときに、もっとも大事にしたいと考えていることは、「教えすぎないこと」です。
すべてをこちらが説明してしまっては、新たな発見をすべてこちらが提示してしまい、学ぶ者自らが発見する機会を奪ってしまうことになります。
また、すべてを教えてしまえば、驚きも半減してしまうでしょう。自分で考え、そうか、そうなのか!と驚く。その機会をも奪ってしまうことになります。
発見や驚きを奪ってしまう。これほど、罪深いことはあるでしょうか。
そんな思いから、「教えすぎないこと」を常々念頭に入れて、授業を考えることにしています。
教えすぎず、発見・驚きをいかに学ぶ者の中に芽生えさせるのか。そこまでどう持っていくのか。
これは、ものすごく難しい。難しいのですが、やはりそこを目指したいと思うんです。発見する、というのは、ものすごくうれしくて、興味深くて、楽しいことだと思うから。
そして、この「学ぶ者自らが、発見したり、驚いたりするために、いかに教えるか?」という難しい問へのヒントが、今回の「わけのわからないもの」には詰まっている、と感じたわけです。

「わけのわからないもの」→「発見や驚き」

「「わけのわからないもの」を伝えるためには、伝えたい相手に、その「わけのわからないもの」をそのまま手渡すしかない。「わけのわからない」状況・場面を、体験してもらうことでしか、自分が伝えたかった「わけのわからないもの」を伝えることはできない。」
この文脈における、「わけのわからないもの」を、「発見や驚き」という言葉に変えてみましょう。
「「発見や驚き」を伝えるためには、伝えたい相手に、その「発見や驚き」をそのまま手渡すしかない。「発見した」「驚いた」状況・場面を、体験してもらうことでしか、自分が伝えたかった「発見や驚き」を伝えることはできない。」
これは、数学を教える、伝えるときに意識すべきことと言えそうです。
今まで数学を学んだ中で、数々の発見や驚きというのがありました。教えるときには、それをそのまま体験してもらえるよう、環境を整える。まったく同じ状況を作り出すことは難しいですし、学ぶ者の力を知り、それに合わせて環境を設定する必要はもちろんあると言えます。前提となる知識の提示方法や、どの程度までこちらが学ぶ者を導いていくのかなど、環境を整えるまでは、微妙な調整が続きます。その微妙な調整こそ、教える者に求められる技術と言えるのかもしれません。
数学では、発見や驚きがあるかないかで、おもしろさが大きく変わってしまいます。ほんとにもう天と地ほどの違いが出てきちゃいます。それだけに、その微妙な調整には、細心の注意を払っていかなければいけないなぁ、と感じます。

おわりに

文章を書くことにおいても、何かを教えることにおいても、「伝える」という共通点があります。なので、お互いが、お互いのヒントとなり得ることってたくさんあるのかもなぁ、と感じました。
数学を柱として、たくさんの人に”良い影響”を与えることが、ぼくの目指すべきところ。そのためにも、いろんなことから数学を伝えるために役立ちそうなことを吸収し、実践し、自分のものにしていきたいな、と思っています。
では、お読みいただきありがとうございました。